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#大学生の日常も大事だ に思うこと

  突然だがわたしは大学生が好きだ。好きというと恋愛対象の話か?という誤解をうけるので、もう少し詳細に語ると、大学という高校でもない社会人でもない独特の期間における大学生の心理や行動にかなりの関心を寄せている。興味がありすぎて大学院では大学生を調査対象にした研究をしていた。それくらい大学生は私にとって知的な興味を掻き立てられる存在である。

 そんな大学生に関心をよせる私が先日、SNSでとあるツイートを見つけた。リツイート数がかなりの数だったため、ご存知の方もいらっしゃるかもしれない。この内容は新聞記事でも取り上げられた。ツイートの内容は、「大学生はいつまで我慢をすればよいのでしょうか」という大学生だけが休校が長期化することへの不安をイラストで綴ったものであった。
 この大学生のツイートに対しては大きな反響がよせられた。その反響はおおむね「その気持ちわかる」、「大変だよね」といった大学生の発信した内容に共感するものであったが、一部には批判もみられた。たとえば、「このような状態でも一部の優秀な学生は自主的に行動している」、「なぜ大学生になってこんな受け身なのか」と文句ばかり言ってないでなにか行動をおこせと学生に主体的な行動を求めるもの。一方「勉強できるだけで幸せでしょう」、「自分で大学に行くことを選んだんですよね?」、「働いてる人はもっと大変ですよ」と勤労していないのに甘えたことを言うなと学生を責めるものもあった。

 大人ですら経験したことがない未曽有の事態にストレスをためている状況で、18歳そこそこの若者に「主体性」や「勤労」という印籠を目に入らぬかと言わんばかりにふりかざし、正論(っぽくみえるもの)をひたすら投げかける人々は、私の目には非常に大人げなく映った。
 しかしもしかすると叩きたい人にも、さまざまな背景があるのかもしれない。たとえば以前から若者に主体性をもってほしいと考えていて、この機会に若者に啓もうしようとしているのかもしれない(有難迷惑だし、かなり時期を間違えているが)。一方、職場で入ってきた新入社員に仕事面で迷惑をかけられていて、その事例を一般化し大学生全体に対する不信を抱いてあたっているのかもしれない。おそらく背景は人によって異なり、さまざまだろう。

 そのようなことはさておき、これらのやり取りから私が感じたことは、大学生ってやっぱり叩きやすいんだなということだった。その背景には大学生のもつ、働いていない、勉強していない、なのに遊んでいるというイメージにあるのだろう。実はこのような大学生叩きは今に始まったことではない。大学生は戦後、基本的にロクでもない表現で叩かれてきた(溝上, 2002)。叩かれ方は今とあまり変わらず、「勉強していない」、「遊んでばかり」といったものだ。長年叩きやすいキャラクターとして定着してしまった大学生に対する風向きは、このコロナ禍の緊急事態の状況でも消えないようだ。深く大学生に同情する。

 大学生を批判する大人たちは大学生なんて勉強しないで遊んでいるだけでしょ?と考える人も多いが、実は数十年単位でみると大学生の学習時間というものは増加している。もちろん授業時間だけが伸びただけで、予習や復習といったし授業外学習に主体的に課題に取り組んでいるかについていえば、未だ不十分であるかもしれない。それでも昔と比較すると大学の授業にもいかず、遊んでいるだけで卒業できるなんてことは難しくなっている。 

 とりわけ現在の全面的なオンライン授業では学生が課題に忙殺される状況が報告されている。もちろん大学は学業をするための場所であると捉えれば、それのどこが問題なのかという意見も出てくるだろう。しかしながら実質的な問題は、学生はただ課題が多いことだけに疲れているわけではないということだ。全面的なオンライン授業における学生の心理的な負担は厳密にいえば多種多様であろうが、ここでは2つ提示してみたい。

①他者とのかかわりが少ない

 現在行われているオンライン授業の最大のデメリットだと思う点が、大学生にとって重要な友人や教員といった他者と十分につながれないという点である。もちろんオンライン授業の中でグループワークを行うことはあるから、まったく他者とのつながりがないわけではない。授業によってはグループワークなど、他者との交流がかなり緻密に設計されている授業もあるようだ。しかし私がここで問題とするのは、授業内で交流できたとしても、授業外での交流がかなり制限されている点である。これはまだ友人関係の構築が十分ではない大学新入生においてはとりわけ問題となる。

 大学入学後は、対面授業であっても理想と現実のギャップを感じやすい時期である。「わたしは心理学の勉強がしたい」「建築の勉強がしたかった」と意気込んで大学に入学した学生であっても、「わたしの思っていた心理学の勉強とは違う・・・」となったり、「一年のうちは専門的な授業がほとんどなく、この勉強が一体何の役に立つのかわからない・・・」となるケースは多い。入学後多くの学生は自分が思っていた大学での勉強と、実際に自分が受講する授業とのギャップに悩まされる。
 それでも通常の対面授業であれば「授業に出れば友人に会えるから・・・」などと勉学に関係ないところで自分を励まし、何とかその時期を乗り切っているのではないだろうか。また何気なく授業について友人と会話する中で、意外と友人が授業をまじめに受けていることに気づいたり、将来や学業のことを真剣に考えているということに気づき、自分もこうしてはいられない、頑張ろう、と良い影響を受けることもあるだろう(もちろん逆に悪い影響を受ける場合もあるのだが・・・)。そういったことはオンライン授業で全くおきないわけではないだろうが、やはりおきにくいと考えられる。特に新入生は友人関係の構築が不十分なため、より難しいのではないだろうか。

②学業以外の大学生の居場所が制限されている 

 勉強することは大学生にとって至極当然のことである。それは学生自身を含めた誰もがわかっていることである。一方で大学生期は学業以外の様々な活動を経験する時期でもある。たとえばアルバイト、大学でのサークル活動、ボランティア活動、部活動、インターンシップなど。これらのさまざまな活動を通して、学生は学業領域以外にも、自分の居場所を作っていく。しかしながら現在多くの大学生が学業以外の活動を制限されている。したがって現在の学生は学業活動(と一部のアルバイト)にしか自分の居場所を作ることが難しくなっていると考えられる。
 その居場所が学生にとって居心地のいい場所であればよい。しかしそうではない場合、多くの学生は不適応に陥ってしまう。おそらく通常の大学生活であれば、学業が多少うまくいってなくとも、ほかの場所で居場所を作ることができていたと考えられる。
 先ほどの例でいえば、「一年生の間は専門的な授業がないからやる気が起きないけれど、その時期は学業がおろそかにならない程度にサークルを頑張ろう」といったように、別の領域で自分の居場所ややりがいを見つけて、うまく大学生活がまわるように調整していたのではないだろうか。しかし現在の状況ではこのような調整をすることはなかなかに難しい。  

 大学生自身を含めて多くの人が、大学生期は人生において最も自由に振舞うことのできる特別な期間であると考えている。しかし自由ということが幸せだとは限らない。高校時代のように教師が学生をコントロールすることは少なくなるので、自分で生活を構築していく必要がある、自分の裁量が極めて大きい期間でもある。学生によっては自分の好きなこと、したいことを次々と経験し、その経験を将来にまでつなげていくことができる、意味のある期間となるが、ただ何となく日々が過ぎるだけのつまらない期間にもなりうる。それが大学生期である。  

 今回の新型コロナウィルス拡大に伴う、大学の全面オンライン化はこの大学生期を大きく変容させるものとなっている。現在大学生は心身ともに追い詰められている。一体わたしは何ができるのだろうか。答えは出ないが、少なくとも私は大学生をただ批判するだけの人にはなりたくない。

 一方この問題が単純に対面授業を開始すれば解決するものだとは思っていない。先述したように対面授業は大学生活の重要な要素となっているが、感染拡大のリスクがある中で全面的な対面授業が開始されるとは思えない。対面授業の開始は一見素晴らしいように見えて、教員だけでなく学生にも負荷をかける可能性がある。

 今後対面授業が一時的に開始されたとしても、やはり大学側は再度全面オンライン授業に戻ってしまう可能性を考えておかなければならない。その際重い課題となるのが、オンライン授業を通してどのように有益な学習の場を学生に与えていくのかということであろう。


溝上慎一編(2002)「大学生論 戦後大学生論の系譜をふまえて」ナカニシヤ出版




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