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スタッキング可能な私たち

人間とは掛け替えのないものである。だが、一旦社会に組み込まれると、掛け替えのない存在は掛け替え可能なものとみなされる。今、自分が会社を辞めたら、私の掛け替えとして新しく社員が一人補充される。学校の先生が病気になれば、先生の掛け替えとして臨時教員が採用されるだろう。自分という人間が明日突然いなくなっても、世界は何食わぬ顔をしてそこにあり続ける。
松田青子『スタッキング可能』はリバーサイドに中層ビルを持つ会社が舞台だ。登場人物は〈わたし〉を除いてみなA田、B田、C田、D田、A山、B山、C山、A村、B野、C野……とアルファベットを用いた匿名で示される。
自分たちに興味を示さない女性をレズビアンと断じ、月二回のレズビアン会議と称する飲み会で悪口を言い合うのはビル五階で働くA田とB田。だが、レズビアン会議の話題が再び出てきた時、その登場人物は七階で働くA山とB山にすり替わっている。

これは大事なことだ。……しかしこれがいつの間にか忘れてしまうのだ。面白いくらいにすぐ忘れてしまう。

『スタッキング可能』

と六階のE野が思えば、そのあと、

大事なことをいつの間にか忘れてしまう……。

『スタッキング可能』

と四階のE川も思うのだ。
このように匿名の人物たちは、共通の行動や意識、時に共通の過去までも持ち、その共通項でくっつけられ、積み重ね(スタッキング)されていく。唯一、人称を与えられた〈わたし〉は言う。

重ねて重ねて上のほうがぐらぐらしてきたら、もう限界だなと思ったら、新しい列を横につくる。ここから見える世界も見えない世界も等しく同じであるように願いながら積み重ねる。それを繰り返す。

『スタッキング可能』

社会的な役割は掛け替え可能だが、考える存在としての人間は掛け替えのないものだと人は言うだろう。だが、昨今ではTwitterで「そうそう、私もそう思う!」と誰かほかの人の言葉(ツイート)をリツイートする。自分の言葉を用いず自分の考えを表明できる(と思い込む)。そういう傾向は私たちの掛け替えのない領域も侵食してきているのではないか。
世界がまるごとスタッキング可能であることに気づいてしまった〈わたし〉の諦めと抵抗と希望がこの中編には描かれているのだ。


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