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死を思い、そして受け入れるための旅


おれはことばといっしょに死ぬよ。


高丘親王航海記

まるで澁澤龍彦の死に様を暗示するかのような儒艮(じゅごん)の台詞は、果たして一九八七年八月五日、読書中に頚動脈瘤破裂で彼が亡くなる以前のものだったのか以後のものだったのか、そんなバカげた疑問がふとわいてきます。アナクロニズムの呪力を得、時空を自在に行き来する彼にとって、自身の死さえも過去に既に見たものだったのではないかと思えてくるのです。

今から約千百五十年前に、天竺(インド)を目指す旅に日本人が出ていたことをご存じでしょうか。しかも、その人物は元皇太子。平城上皇の皇子で、将来は天皇になることを約束されていたのにも関わらず、薬子の乱によって、皇太子を廃されてしまいます。後に僧侶となり、空海に師事。高野山で僧侶として地位を上り詰めたのに飽き足らず、唐へ渡ることに。海路・陸路の厳しい行程を経て唐の都長安に着いたのもつかの間、すぐに天竺を目指すのですが、道半ばで亡くなったと伝えられています。そんな史実を軸に澁澤が創作したのが『高丘親王航海記』ですが、高丘(たかおか)親王の天竺へ向かう謎の多い旅を幻想とエロスによって肉づけしています。

旅の一行は高丘親王と側近の安展、円覚という二人の僧侶、秋丸という少年(実は少女)。広州の港から船出し、海上では儒艮(じゅごん)を旅の道連れとし、秋丸によって儒艮は言葉を覚えさせられます。陸に上がる時が来て、儒艮も必死に一行についてゆくのですが、ひさしく水のない環境でついに命が尽きてしまいます。

とても楽しかった。でも、ようやくそれがいえたのは死ぬときだった。おれはことばといっしょに死ぬよ。


高丘親王航海記

冒頭の言葉は、儒艮の最期の言葉として出てきます。

その後も一行は、人語を操る大蟻食い、鳥の下半身を持つ後宮の女たち、人の夢を食べ馥郁な糞をひる獏、男根に鈴をつけた犬頭人等々、摩訶不思議な出会いを旅先で重ねます。特に、マライ半島にある盤盤国で出会った太守の娘パタリヤ・パタタ姫は、高丘親王の幼い頃の記憶にある藤原薬子に面影が似ており、その後、他国で再会し、親王の運命に大きく関わってゆくことになります。

幼い頃、高丘親王は父である平城上皇の愛人であった藤原薬子に、ひそかに惹かれていました。ある晩、薬子は来世の自分を内包しているという玉を、

そうれ、天竺まで飛んでゆけ。


高丘親王航海記

と投げます。それから数十年経ち、老年を迎えた高丘親王にとって天竺への旅は、仏教的な求法(ぐほう)以上に、その玉のゆくえを知りたい、薬子にまた会たいという思いに駆られたものでした。

『高丘親王航海記』の執筆時期は澁澤の咽頭癌闘病期と重なり、ついには彼の遺稿となってしまいます。高丘親王が師子団(セイロン島)に向かう船中、盗賊に取られまいと飲み込んだ真珠によってもたらされる喉の痛みは、澁澤自身の癌による喉の痛みに重なります。

死はげんに真珠のかたちに凝って、わたしののどの奥にあるではないか。わたしは死の珠を呑みこんだようなものではないか。


高丘親王航海記

自らの病巣を真珠になぞられる。そこにあるのはもはや病を敵とみなし闘う姿勢ではないでしょう。また、物語の中にたびたび現れる、時代が倒錯したアナクロニズムの描写も単なるユーモアではなく、過去から未来へと流れる時間は生者のものであり、それをいとも軽々と超える死への憧憬が込められているように思います。『高丘親王航海記』はそういった意味でも、澁澤自身の「死を思い、そして受け入れるための旅」でもあったと言えるのではないでしょうか。


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