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いとうせいこう『想像ラジオ』

「もしもし? 今、大丈夫?」
「うん、大丈夫よ。元気だった?」
「私は元気。ママはどうなの? 痛みは?」
「もうどこも痛くないよ。元気百万倍!」
「よかった。それだけ、心配だった」
「にしてはご無沙汰ね。忙しかったの?」
「忙しかった。でも、本当はこうやって電話できることに気がつかなかったんだよ」
「そうなんだ。よく気がついたね」
「うん。本を読んだ」
「死者に電話する方法が書いてあったの?」
「うん。想像するの。ママの声、語彙、語尾……。今、神経を集中させて想像している」
「うん」
「その本ではね、東北の小山に生える杉の木のてっぺんに仰向けになってひっかかっている男の人が〈DJアーク〉と名乗ってラジオを発信するの。想像ラジオっていう番組」
「想像ラジオ?」
「想像力が電波となって聞こえるラジオ」
「その想像力は〈DJアーク〉さんの想像力なの? それともリスナーの想像力?」
「たぶん、どっちも必要。そのチューニングが合った時に聞こえるんだと思う」
「じゃ、聞こえない人もいるのね。ところで、〈DJアーク〉さんはどうして杉の木のてっぺんにいるの?」
「津波でそこまで運ばれてしまったの。東日本大震災の時の」
「津波で多くの方が亡くなったという」
「そう。〈DJアーク〉もその犠牲者だし、想像ラジオのリスナーもまた犠牲者。たまに犠牲者ではない人の耳にも届くけど、それはとても稀なことで、杉の木にひっかかった男のことをずっと気にしている主人公で小説家の〈私〉にもその声は聞こえない」
「聞こえなくていいんじゃない? いつまでも死んだ人に思いを残して、後ろ向きでいるなんて、人生もったいないわよ」
「死んだ人に寄り添うことが生きてる人間にとって本当に後ろ向きのことなのかな。実際、こうしてママを想像しながら電話で会話しているでしょ。ママは8年前のママとは違っているの。成長している。私も8年前の私とは違う。その会話には新しい発見だってある。過去をなぞっているだけじゃないんだよ」
「……」
「本の中では、死者の言葉を想像することが不遜であるという意見も出てくるの。震災の犠牲者の遺族でもないのに、その死を想像し、創作していくことに否定的な意見のボランティア青年が出てくる。たぶん、私の意見はこの青年に一番近いところにあると思うの」
「でもあなたはこうして私を想像している」
「うん。正直、ママのことを想像するのも、どこかで不遜だなという気持ちがあってひっかかっている。でも、不遜だと気づかずに想像することと、不遜だと知り、あえて想像することは別なんじゃないかと思ったんだ。主人公の小説家〈私〉は作者のいとうせいこうさんに重ねていいと思うんだけど、彼は津波の犠牲者の死をこう想像している。ちょっと引用するね。
〈私は目を開いているのでしょうか。それとも閉じているのでしょうか。どちらにしても無音の闇です。何も見えない。見えない海は果てなく全方向に伸びてつながっていて、その黒い水の体積の大きさを考えると気も狂わんばかりの恐ろしさに貫かれます。私たった一人でそこにいます。〉
ねぇ、ママ。実際の死はこの想像を遙かに超えるものであるとは思う。でもね、生きている人間がここまで想像するのには無傷ではいられない。これを書くために彼が負った傷を思うと、私は彼の方法を批判することはできないよ」
「あなたも私を想像することで傷ついたりしないの?」
「傷つかない想像なんかでママとは会話できないよ。でもそれは同時に救いでもある」
「そっか。ママは今でも役に立ってるのね」
「うん。ママがどこにいようと、私はずっとママに甘える。こうして、声を聞きたくなったら想像して電話する」
「そうしなさい。いつでもかけてきなさい」
「ありがと。じゃあ、切るね。おやすみなさい」
「おやすみ」

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