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最期にきれいなものを見て終わりたい

どうも、こんばんわ。にっちもさっちもです。

この間の記事で「死ぬ気はない」って言っておきながら、この記事のタイトルはコイツかまってちゃんだなと思われそうですが、これは私の大好きなゲームの台詞です。そのゲームとは……

『零~濡鴉ノ巫女~』

テクモ(現コーエーテクモゲームス)から2001年にPS2のゲームとして発売された『零~zero~』の第5作品目として、任天堂Wii Uから2014年に発売されたのが『零~濡鴉ノ巫女~』となります。

※この記事は『零~濡鴉ノ巫女~』のネタバレを含みますのでご注意ください。

『零』の簡単な説明

零を知らない方に向けて簡単に説明をしますと

目には見えないものを写し出し、怨霊たちを封じ込める力を持つ不思議なカメラ「射影機」を使って、幽霊たちと戦うゲーム

察しのいいかたはお気付きでしょう。そうです!ホラーゲームです!

零の主人公達は一言で言えば生き延びるために、そして謎を解き明かすために射影機を持って、幽霊たちと対峙しなくてはいけないのです。

1作目『零~zero~』                           2作目『零~紅い蝶~(あかいちょう)(リメイク作品『零~眞紅の蝶~(しんくのちょう)                             3作目『零~刺青ノ聲~(しせいのこえ)                        4作目『零~月蝕の仮面~(つきはみのかめん)』                     5作目『零~濡鴉ノ巫女~(ぬれがらすのみこ)

ざっとわけると零はこの5つの作品となっております。他にも映画や漫画などがありますが、今回は割愛させていただきます。

記事のタイトルの台詞

皆さんは「死」についてはどう思いますか?私は未だに死とは向き合えていません。身近な人が亡くなった経験も少なく、死を考えると「非日常」的なモノだと無意識に思ってしまいます。

それは現在を生きる私たちがあまりにも恵まれている証拠でもあると思っています。医療が発達したおかげで、インフラが整っているおかげで、普通に生きていると死は遠くにあるように思えてしまうのです。

でも実際はどうでしょうか。私は最近、自動車学校に通っています。車を走らせていると「あ、この機械がこの速度でぶつかったら人は簡単に死ぬな」と度々思うことがあります。そんな車ですが、街中では毎秒といっていいほど、視界の中を動き回ってます。

他にも現在では世界中で新型コロナウイルスが流行ってますね。こちらも死の危険性はあります。

そう考えると、死って案外近くにあるんだなぁって思いますよね。早い話、一年以内に死ぬ可能性や明日死ぬ可能性、なんなら今死ぬ可能性だってあるんですね。

まぁ、こんな話をしたところで毎日「明日死ぬかもしれない!」なんて考えながら生きていたら疲れます。なので大抵は忘れます。楽しいことあったらもう「死」って言葉すら思いつきません。

私はある時までは「ふっ…死にたきゃ死ねばいいだろ…」と中二病全開の時期がありました。殴りたいですね本当に。まぁ、今でも考えはあまり変わってません。生きるも死ぬも個人の自由です。生きたいとに生きて、死にたくなったら死ぬことが出来るのが人間です。ただ、私は自分勝手なので、私が好きな人たちには私が死ぬまでは生きていてほしいですけどね。

話が逸れましたね。では「最期にきれいなものを見て終わりたい」とは『零~濡鴉ノ巫女~』に出てくる少女「白菊」の言葉です。

白菊はとある儀式を行う際の人柱(あるいは人身御供)の役目を与えられます。「七歳までは神のうち」という言葉があるように、昔の小さな子供は七歳まで生きられるかは不安定なものでした。そんな、七つ前の少女である白菊は一度は病気で死の直前までいきましたが、無事に生還をした結果、特殊な少女として目を付けられます。

人々の平和のために、どうしても必要な生け贄に選ばれた幼い白菊に拒否権などはありません。白菊には好きな男の子がいましたが、幼い二人には逃げることも逆らうことも出来ず、ただ生け贄として送られる祭りの日を待つことしかできません。

祭りの日、白菊を見送る役目にその男の子が選ばれます。そこで白菊は男の子に「忘れないで」という言葉を残し、人柱として連れて行かれます。この「忘れないで」というは両者にとっての呪いの言葉となります。

そして、時が流れ、白菊は来ることのない男の子を死後ずっと待ち続けます。長い時をずっと暗い地の底で待っていると、好きだった男の子にそっくりな男が現れます。そう、彼の子孫です。

子孫を彼本人だと思った白菊はついに彼が迎えにきてくれたと勘違いをし、あの世へと連れて行こうとします。しかし、子孫の男はそれを拒みます。当たり前です。子孫には関係のない約束です。しかし、それでは白菊があまり可哀想ですし、白菊は許さないのでは……?

そこでこちらの台詞です。

私は特別な柱‥‥ずっと死ぬことはできない                          でも、これでやっと終わる                      来てくれてよかった 本当に嬉しかった                            もう一度会えただけで‥‥もう‥‥                        わたしを忘れて 忘れていいよ                               最期にきれいなものを見て終わりたい‥‥   

白菊はなんとなくわかっていたのです。彼は一緒に来てくれないことを。 ただ、大好きだった人にもう一度だけ会えただけで彼女にとっては救いだったのです。そして、忘れていいよという言葉。

実は子孫が白菊のもとに訪れたのも偶然ではありません。約束を交わした男の子は白菊との別れのあと、そのショックなのか祭りの日の記憶、そして白菊の記憶を失ってしまうのです。しかし、朧げな記憶の中、交わした約束の言葉だけを生涯抱えて生きていきます。その想いが、何世代も後に子孫の男へとたどり着き、そして約束を終わらせに来たのです。

この「忘れていいよ」という言葉はお互いの呪縛を解き放つものでした。互いに互いを忘れられず、引きずってきた約束がついに終わりを告げたのです。

タイトルの意味 

長くなりましたが、この「最期にきれいなものを見て終わりたい」という言葉は私の好きな言葉になりました。

その理由ですが、人はいつかは死にます。それも遠い未来かもしれないし、明日かもしれません。事前にわかっているのならば、良いのですが、実際には死ぬ時なんてわかりません。わかっているのは「いつかは死ぬ」ということです。

そして死ぬ直前に貴方は何がみたいですか?私は綺麗なものを見たいです。綺麗なものに囲まれて死にたいですし、綺麗な思い出を振り返りたいです。走馬灯の光景が綺麗なら良いですね。

そこで、自分が綺麗と思ったものには努力をするようにしました。見たい風景は自身の目で見て、綺麗と思った女の子とは仲良くなって話してみたい、死ぬときにダサい服だと嫌なので、かっこいいと思った服を買って、そして最期に見るのが知らない人の顔が嫌なので仲の良い友人を作る。

いつ死んでもおかしくない人生なので、どうせなら自分が綺麗と思うものがあったのなら頑張って手に入れるかぁ!と思えるようになったのです。かといって、世間一般の美的感覚に囚われる必要はないです。自分が大切と思えるものを大切にしよう!ただそれだけです。

こんなご時世だから、行動は制限されてしまいます。なら出来る範囲で自分なりにやることにします。面白いと思ったアニメやゲームをたくさん考察したり、友人とくだらない通話したりね。

明日死んだら、きっと走馬灯には飼っている猫の寝顔が出てきそうですが、うちの猫が世界一可愛いと思っているのでそれはそれでOKです。

すごく長くなりましたが、好きなゲームとその台詞と、私の主観前回の人生観でした。零は大好きなゲームなので、これからも定期的に記事で取り上げて行きます。是非、興味が出てきたら『零』をプレイしてみてください。


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