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本とかドラマとか歌の感想など
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#人間

芝居小屋とうそとほんと 『万両役者の扇』

また偶然なのですが、 芝居小屋にまつわる本を読みました。 出版されたばかりの新作なのですが、ほんと、偶然。 んー? となって、手にとりました。 芝居をすることにとりつかれ「ほんととうそ」が曖昧になっていく人と、 その人に魅了されて(?)いく人びとの話。 簡単な言葉を使うとそれは常軌を逸した…… いや狂ってるんじゃなく冷静、 意外と冷静で、 いやいや、もう「ほんととうそ」「ほんとかうそか」 「自分ってなんなのか」が、 わからなくなっている、みたいなのかもしれない。 自分の“

花と花瓶 ある2人の歌手の顔

「人生はその日その日の積み重ね」 近所のお年寄りが口にしたのを聞いて肚の中でツッコんで笑った。 「何? みつを的な?」 でもその夜寝る前になって「うーむ」「ほんまやなあ」なんて。 ということを、思い出したのは、テレビに出ていた2人のおじさん歌手を見てのことかもしれない。 森進一。 「こわ!」 なんなんや、あの顔。今の顔。 人の容姿をどうこういうことはいいことではない。とはわかっている上で。 わたしはこのひとの歌とこのひとにずっと興味がある。 五木ひろしより森進一派。歌に物

雨の中 『羅城門に啼く』と『侠』

豪雨の中、野暮用で1時間歩かないといけなかった昨日昼前。 川沿いの国道沿いを歩いていたら 車やトラックがびゃーっと走ってその度にザバーッ。 無になった。 泣けてくるし怒りが湧いてくるし でも歩かざるを得ない辿り着けないことには。 ずんずん歩きながらザバーッをまた、またまた、浴びながらも、思った。 たぶん車に乗っている人は攻撃とか加害しようとは思ってもいない。 悪気はない。 あちらもただ仕事や目的のために走らせているだけでしかない。 雨の中の運転だ。あちらも危険だろう。 でも速

Over there 『Q』(呉勝浩)神について

「お前は輝け。太陽が嫉妬するくらい」 イカロスは太陽に憧れて焼け死んだが、 「そのイカロス」は高く高く跳び笑い踊る。 イカロスとはギリシャ神話に登場する若い神だが、 「神」と言う言葉は現代の推し活シーンなどでもよく使われている。 「マジで神」「神ってる」「ファンサが神」 ひとりひとりが勝手に意味を付けて神になる。神にする。 自分が。自分たちが。 「神をつくる」 このところ仕事の合間に読んでいた700ページ位の長編を読み終えた。 呉勝浩の『Q』。 クライムサスペンスでバイオ

種と翼 わかりやすさや考えることや色々をテレビドラマに思う

まとまらないままに書きたくなった。 さいきんのテレビドラマを観ていてだ。 きっかけは朝ドラからだったような気もする。 観ていますか。 SNSでは大絶賛の嵐だ。 うんうん。よくわかる。 でもわたしは初回から観始めて数話進んでいくうちに 「うん」と共に「んー?」を感じるようにもなった。 いい意味で「わかりやすい」んじゃないか、と。 「みせたい側を引き立てるために わかりやすいわかりやすすぎる役割というか設定をされている」 っていうといいかなあ。 それがきっと「良い」のだろ

2054 ドラマ『不適切にもほどがある!』にありがとうを言いたい

ドラマ『不適切にもほどがある!』については何度か書いた。 回を重ねるごとに、違和感と「これはあかん」が重なりもし、 入り込めなく集中できなく(集中して楽しめなく)なった。 最終回を「どう終わらせるのかな」っていう期待はあったのだけれど、 「んー………?」「うんうん」「なるほどな」「でもなあ」 だからもう一度観なおしたらほろりとはなりもしたけれど、 いろんな人の気持ちを考えて「どうなんやろうなあ」となったのもほんとの気持ち。 悪い意味でもいい意味でもいい意味でも悪い意味でも 「

芝居小屋と人 『木挽町のあだ討ち』

自分で自分の書いたものを改めて引用するなんて全然よくない。 でもふとそうしたくなったのは、 読み終えたとある1冊が、ほんとうによかったからだ。 読みながら何度もぐっときて、じぃんとして、 読み終えて、そうしたくなったからだ。 直木賞受賞作だし、人気作だし、 尊敬する劇作家たちも薦めていたから気になってはいた。 にもかかわらず、手に取るのが遅くなったのはすごくしょうもない理由だ。 「もう時代小説はええかなあ」 うんと若い頃一時期、ずっと時代小説を読んでいた。 心はずっと江戸

私は最強 吉川トリコ描くギャル語の『マリー・アントワネットの日記』

古典と世界史の授業が好きだった。 いい先生に巡り合えたからというのも大きい。 伊勢物語「あずさ弓」の現代語訳という宿題を びゃーっと書いて提出したところ、 年配の色っぽい先生が笑ってくれた。 卒業するまでずぅーっと言われた。 「『桃尻語訳 伊勢物語』のmomoさんね。うふふ」 今思うと橋本治というより田辺聖子気取り、というか、読んでいたから書いた書けたのだろうと思う。 でも、たくさんの真面目な回答の中、いきなり出てきたあんな訳を読まされたらそりゃびびるやろうな。 「江

The Aerial Assassin サンキューマタネウィルオスプレイ

金網の中でのごちゃごちゃ血まみれぐちゃぐちゃ試合をただ観た。 直接会ったこともないその選手のことを勝手に書きたい。 入団したころから観ていた訳じゃない。 会場に足を運んで生で観たことだって両手で数えるほどだ。 新日本プロレス在籍としての最後の試合も大阪だったけれど行かずに配信で観た。 いつの間にか気付けば目で追っていた。 むちゃくちゃだからだ。 なんでそんなに身体張るねん。 知人は見るたびに言っていた。 「やさしいなあ」 どんな選手のどんな技もやりすぎくらい受けまくる

凪良ゆうの『汝、星のごとく 』 「こうである、ことが当たり前」なんて、ない

人は誰しも「思い込み」を持っていると思う。 大きなものから小さなものまで、 言うなれば 「こう、と、されている、ことを疑いすらしないこと、かーらーの固定」だろうか。 その「かーらーのー固定と凝り固まり」が、 誰かをしんどくさせたり誰かにとっての暴力となりもしかねない。 と、考えたことはあるだろうか。 「こうであることが当たり前of当たり前すぎて疑いもしない」 その向こうには、「ではない」「そうなれない、出来ない」ことやものやひと、も、「ある」「いる」。 その絶望や苦しみを考え

不適切とモヤとスタート地点 ドラマ『不適切にもほどがある!』を再び考える

ドラマ『不適切にもほどがある!』が、結構叩かれているみたい。 「せやろな」「せやな」と思った。 1話目を観たわたしはうれしかった。 笑ったり笑ったり、なつかしさを感じたりもしていたから。 時事ネタがではない。 「よく観ていた頃の小劇場」感、がちゃがちゃごちゃごちゃ生き生き感、ギャグやオフザケを散りばめながら「言いたいことを伝える」を感じてだ。 でも、かな、だから、かな。でも、かな。 2話目くらいから「ん?」を思い始めた、「ん?」と「んー?」だ。 「ああ、これは、叩きがいがある

じゃねえから 渡辺ペコ『恋じゃねえから』を皆で読みたい考えたい

それは表現ですか? 表現ですか。 そうですか。 その表現は誰かを傷つけていませんか? それは恋ですか? 恋だったのですか。 そうですか。 相手もそう思っていますか? 相手の身体や尊厳をおかしていませんか? それにすら気付かなかったり、 気付く気付かない以前に酔ったり思い込んだりして 気付こうともしてはいなかったりしませんか? 例えば、あなたがそうしたことやそう言ったこと、それは他者への想いからですか? 自分のためですか相手のためですか? 相手のことを思っての言

アイドル 紅白の蘭ちゃんとおじさんたちと恋と愛と豊

紅白歌合戦の伊藤蘭を観て涙がぶわーっと出ていた。 正確に言うと違う。 紅白歌合戦の伊藤蘭とその応援さんたちを観て涙が止まらなくなった。 あたりまえだが世代じゃない。 でも懐メロ番組に長年も長年かかわってきたのもあり、昭和歌謡には詳しい。 キャンディーズ? 好き。拓郎も好き。って、わたしのそんなことはどうだっていい。 紅白は毎年観る。 でもこの数年のわたしの怒りはMAX of MAXだった。 歳をとったからだ。 違う。 あきらかにネット民のバズりを期待してる感を感じるか

それらはコインの裏表 何とかならない時代のシェイクスピアや近松

今朝「おすすめされていた作家さんの本を買いました」というメールをいただいて、なにかが繋がったような、不思議な気持ちになったのは、 ここ最近、このnoteを思い出していたからかもしれません。 ちょうと一年前に書いたものです。 振り返りネタが続いてしまっていますがサボっている訳ではない(笑) 赦しと復讐とコインの裏表のこと。 シェイクスピアとか近松とか己のことや、 いくつかの本と舞台の話とかと併せて、なんか憑かれたような気持ちで書きました。 ちょっと長いけど、ほんま、いろいろ