見出し画像

生きるというのは面倒臭いものである

こんばんは。もぬんこです。
気軽に「死にたい」「消えたい」と言う私ですがが、何をもってその言葉を発しているでしょうか。いわゆる死生観についてのお話です。

究極の面倒臭がり

私は、私生活において面倒臭いことが大嫌いです。面倒臭さの先にある喜びは、仕事だけでお腹いっぱい。生きている中で面倒なことに出会ったら「どうでもいいから楽にしてほしい」「誰にも迷惑かけない形で死ねないかな」と思っています。

どんなに面倒臭くても死なないのは、「死ぬこと(自殺すること)の方がより面倒」だからです。また、「死にたい」という表現よりも「消えたい」という表現の方がしっくりきます。誰にも悟られず、迷惑をかけず、消える方法があるのであれば、今すぐ消え去りたい。
そうもいかないのが人生であり、この世界です。

要するに「死にたい」「消えたい」という私の気持ちや言葉は、「助けて」ではなく「面倒臭い」が一番近い言葉ということになります。

死んだら何故面倒なのか

ここでの「死ぬ」は「自殺」と定義してください。
私が考える死ぬことの面倒臭さをお伝えします。

・死ぬシチュエーションを決めなければいけない
 →人生の選択肢を決める行為そのものが面倒臭い
・死に方によってその後の影響が変わるので考慮が必要
 →後述します(そして面倒臭い)
・私の死により後追いする可能性有の人がいる
 →私の死で私以外の人生を左右することが嫌
・死後の手続きは面倒臭いことこの上ない
 →残した人に仕事でもないのにやらせるのが嫌
  ※天涯孤独であれば仕事として対応されるため問題無し
・遺産問題
 →負の遺産(マンションのローン)があるため残された人が辛い
・万が一輪廻転生したら最悪
 →また人生を一からスタートするなんて一番面倒臭い
  ※人生をやり直したいわけではないため

良くも悪くも「私が残すもの」がある以上、死んだ後の現世に影響が生じます。残された人の面倒臭さを想像しただけでゾッとします。私自身が面倒臭がりだからこその感覚かもしれません。(輪廻転生は遊び心です)

死に方分析

もしかしたら、生きる<<<<自殺となるような自殺方法があるかもしれない!そう考えた時期もありました。
Google先生に調べていただいた結果、私の分析では答えがありませんでした。

・確実性
「死ぬ」という行為に対して確実性がないといけません。万が一生き残ろうものなら、自殺行為の前よりも面倒臭い出来事が待ち受けています。

・残されたものへの安全性
残すものに恨みがあるわけではないので、電車に飛び込むとか家で死ぬとかもってのほかです。賠償請求がありそうなものは排除します。

上記2点で既にだいたいの死に方が却下となります。

樹海で死ぬ、他国の未開の地で死ぬ、がそこそこ良い案だと考えましたが、確実性が低くなります。また、その場所まで準備して行くのが面倒臭いです。

"死生観"の定義

「そんなに【面倒臭い】で終わらせられないよ!」そんな声が聞こえてきます。その通りです。なぜならばこれは「死生観の話」だからです。

死生観とは、「生きることと死ぬことに対する【考え方】」の意味。
「考えられる人」の話。

死生観をもって死ぬ人と、突発的に死ぬ人は意味合いが違うと考えます。
何らかの理由で突発的に生よりも死を選択するというのは、死生観による死ではないというのが私の中の定義です。

「死にたい」「消えたい」は当たり前の感情

「死にたい」「消えたい」と思うことは、悪いことだと思っていませんか。私は、生きている以上その逆を考えるのは真っ当な思考だと考えます。

空気のように存在する「死にたい」「消えたい」を認めてくれない人は多いのです。
息を吸うような感覚でこの感情は存在すると思っています。

それを自他が否定することで「私はおかしい」という感覚になり、さらに追い詰めていくのではないかと私は感じています。

それがどんなにマイナスの感情であろうともまずは「受け入れること」が大事です。

そういう気持ちになっていいんだよ

その感覚を多くの人が持ち合わせ、願わくば多くの人が発せられたら、心救われる人は増えるのではないかなと思います。

理解してくださる人がいても理解できない人がいても良いんです。
少なくとも「こういう人間もいるんだよ」ってことを知って欲しい。

サポートいただいた費用は、クリエイターとして必要な資産の維持費や購入費に使わせていただきます。一人ひとりが生き方を見つけられるような存在になりたいです。