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シェイクスピアについて/William Shakespeare

ストラットフォード・アポン・エイヴォンで生まれ育ち、ロンドンで大成功した劇作家で詩人のウィリアム・シェイクスピア。

どんな人だったのか?

ストラットフォードの街中、ヘンリーストリートにある像。

ウィリアムは、1564年4月にストラットフォード・アポン・エイヴォンの街中にある両親の家で生まれました。当時、ヨーロッパでは黒死病(腺ペスト)が大流行しており幼児の生存率はとても低く、ウィリアムが生まれた年も同様でした。父ジョンと母メアリーは、ウィリアムが産まれる前に長女、次女を失くしており、メアリーは生まれたばかりのウィリアムを実家の農園に連れて疎開していたのではないか?とも言われています。とにかく、ウィリアムは無事に成長し、弟と妹もいる子だくさんの家族になりました。

お父さんは、皮手袋を作る商人で自宅に工房とお店を持っていました。ウィリアムの実家は、現在まで保存されており、『シェイクスピアの生家』として一般公開されています。

学校に通い始める

シェイクスピアの通った学校の教室!

街に住む少年たちが無料で通えるグラマースクールに、ウィリアムも7歳から通い始めます。ここで読み書きやラテン語を学んだとされています。当時の教育は読みが主流。書きのほうは、『芸術』という風にとらえられていました。ここで、ウィリアムは演劇に触れたとされており、劇作家としての礎となりました。

この学校は、今でもキングエドワード6世の学校として受け継がれています。シェイクスピアが授業を受けた教室も当時の様子を残したまま保存されており、現在も学生がこの教室を朝の11時までは使用しているそうです。その後は、一般公開されています。

アン・ハサウェイとの結婚

裕福な農家で生まれ育ったアンの実家。ウィリアムもここを訪れたことでしょう。

ふたりは、ウィリアム18歳、アン26歳で結婚します。当時、年の差カップルも珍しかったと思いますが、アンが結婚式の前にすでに妊娠していたことから、二人は急いで挙式を挙げなければなりませんでした。その前年にアンの父親が亡くなった際、父親はアンの結婚持参金としてかなりのお金を残していたこともあり、二人は無事に結婚します。結婚後、ふたりはウィリアムの実家に住み始めました。それから長女のスザンナと双子のハムネットとジュディスが生まれます。
アンの実家は、『アン・ハサウェイのコテージ』として、現在は一般公開されています。

家族で住むための大邸宅の購入

チューダー様式のノットガーデンが再現されています。

ウィリアムはロンドンで詩人・劇作家として成功をおさめ、33歳でストラットフォードの実家の近くに街で一番大きな邸宅『ニュー・プレイス』を購入します。(もともと家の名前はニュープレイスと呼ばれていた。)その広さは、今の地図で見るとかなりのもので、当時のシェイクスピア家はすでにかなりの高い地位にいたことがわかります。
色々な経緯を経て、現在はその跡地が庭園となり『シェイクスピアのニュープレイス』として一般公開されています。

ウィリアムは、実家と家族との自宅がストラットフォードで、仕事はロンドン。という2拠点で生活していました。家族が住む大邸宅は妻のアンが切り盛りしていました。長女のスザンナは、ストラットフォードで医師であるジョン・ホールと結婚し翌年にはエリザベスが誕生。ウィリアムの死後にニュープレイスを受け継ぎました。スザンナの死後、ニュープレイスはエリザベスが相続します。
残念ながら、ウィリアムの孫たちは誰一人子供を持たなかったため、ここでシェイクスピア家直系の子孫は途絶えました。

今回のストラットフォードへの旅を終えて、私が感じたのはウィリアム・シェイクスピアという人は当時でもかなりユニークな性格で、人生を歩んだ人である。ロンドンで仕事をし活躍しながらも、ストラットフォードに住むシェイクスピア家のことを考えて大切にしていた。のではないか…と。感じました。これから彼の作品についても学んでいきたいなと思っています。

シェイクスピアゆかりの地についてはこちらの記事をご覧ください。

私が現地に行ってリサーチした、『シェイクスピアゆかりの地について』語る、オンライン講座もあります!詳細はFacebookのタイムラインをご覧ください。

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