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オバケ


仕事を辞め、住む場所も環境も大きく変わった。
27を迎える私は入籍をし、身の回りの法律も変わった。


取り巻く全ては忙しく流れていくのに、私だけずっと取り残されている。

私ってなんなのだろう。

モラトリアムはとっくに過ぎているのに、
一向に自分が見つからないのが27の私だ。

もっと言うと心の成長の定義すらわからない。
人間なんてそもそも汚いものであるのに、これからどういう変化を起こすと成長と呼ぶのだろうか。


人間の心はきっと硝子細工のように美しいものではなく、もっと生臭くて赤黒いものだと思う。

結局、可愛いのは自分である。
どんな人間も承認欲求や自己実現が満たされねば
ピラミッドは完成しないのだから困ったものだ。

オトコであることも、オンナであることにもとりわけ嫌悪を持っている。

オトコを意識しなければ、
形作られたオンナの型に当てはまったような
オンナなんていないはずである。

逆も然り。

皆んな愛されたいのだ。
オトコとして。オンナとして。

中身なんて醜い自己愛の塊であるのに、
純白で繊細なレースで編まれたような自分を演出したくなるものだ。

演出するのだ。
子どもが好きな自分を。
拘った料理を好む自分を。
オーガニックな生活に浸る自分を。
文学や芸術、自然を愛する自分を。
繊細な自分を。
素朴な自分を。
愛されるべき自分を。


彼は、彼女は、「そう見られたい自分」しか見せないのだ。
そんな人間像が我々は大好きだし、そう他人にも思われて、愛され、安心したいのだ。

自分だってそんな承認欲求や自己アピールの気持ちで心が煩くなる時がある。

くだらない。

見えている全てがただの年中発情したオスとメスである気がして、絶望することが多々ある。
いつも頭の隅にある私を愛しそうなダレカのために振る舞っているように見えてくる。

くだらない。


そんな捻くれた気持ちで生きてきたので、
人と衝突することが多々ある。

どうしても丁寧な小説の中でしか生きないような人間が苦手なのだ。

へどろみたいな気持ちを舌触りのいい綺麗な言葉で隠して、人間なのに人間じゃないみたいなレースのオバケである。

飾りみたいな言葉できっと酔えるような純粋さは
生憎持ち合わせておらず、ニセモノはただ耳障りなだけだ。

そんなあるんだかないんだか分からないような
虚像のオバケなんかじゃなくて、汚いものを汚いと知ってさらけ出せる人間を私は美しく感じる。


ああ、気がついたら10年前の自分となんら変わらない考え方である。

やはり私は成長していない。
認められても、愛されても、
心が空っぽな私のままだ。

マズローは嘘つきなのだろうか。

レースを編むようなオバケならば、
きっと満たされることを知るのだろうか。



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