見出し画像

キョンシーの昔のおはなし

 深く深く愛された娘だった。
 世界に誇る一大都市がある訳でもなく、しかし農業に適した肥沃な地があり、安定した実りを得ることができる、そんな場所のとりまとめ役を随分と古くから担っていた彼女の生家は、地域では有数の裕福な家庭で、ほどほどに幸福だった。彼女が生まれるまでの両親の悩みは中々子供が生まれないことで、聞けば幾度も幾度も、彼女の兄や姉になるはずだった存在を生まれる前に亡くしており、そうしてやっと彼女がただ一人生まれたという。そんな経緯もあり、両親は彼女をそれこそ目に入れても痛くないといった様子で可愛がった。毎年、彼女の誕生日の度に両親は張り切って馳走を用意し、親類、友人、町の人々にさえふるまった。体調を崩しがちで、妊娠中に食欲がない時にも桃だけは口に出来た彼女の母の話もあり、参加者も道行く人にも配れるくらいに立派な壽桃(ソウタオ)をいつも準備して、彼女の席の前に置いていた。両親からの愛情を一心に受け、無事に成長した彼女は、絹のように真白くすべやかな肌に、頬は桃のように赤く、柔く、繊細で可愛らしいと、家族や親しい友人たちにタオタオと呼ばれていた。
 その年は雨の多い年だった。農耕を生業にしているものとっては恵みの雨、しかしそれも過ぎれば毒になる。長雨が続く中、町の人々も彼女の父も、どことなく暗い顔をしているのを彼女は見ていた。彼女の父の元へは日々色々な人が訪れ、忙しそうにしている。普段は溌溂と荷を運んでくる青年が、普段とは比べようのないほど少ない荷物と共に深刻そうな顔をして。秋の収穫の時期には壺を片手に赤い顔をして父と楽しげに話しをしている、壺のような体系のおじさまも厳しい顔で部屋に消え、普段は田畑でしか見ない泥にまみれた状態の町の人が大勢、そうして、遠くから来たという怖い顔のおじさま方の時は言い争うような声も。そんな普段とは少し違う雰囲気の家に、少女は少し落ち着かず、窓越しにつらつらと流れ続ける雨を見つめていた。
 「タオタオ、何を見ているんだい?」
 少女は振り返り、普段とは違って随分と疲れた顔をした父を見上げた。雨を見ていると答えれば、父も同じように窓の外を見やった。変わらずに降り続く雨に眉をひそめる。
 「こんな時ならば、魃も歓迎するのだけれども。」
 「バツ?」
 「日照りの化け物さ、虎も逃げ出すほど恐ろしいんだ。」
 怖いのは嫌、そういって頬を膨らませた少女を見て、少女の父は破顔して彼女を抱きしめた。恐ろしいことなど何もないよ、私がいる限りしっかり守ってみせよう。ほんの会話でも嬉しげにするのが常であった彼女の父なので、この反応がむしろ普段通りの態度に近い。彼女はそれに少し安心して父の腕の中に収まっていた。
 「あぁそれに魃は犼になると聞く、それならば犼でも我々に太陽の恵みを与えてくれるだろうかね。」
 「太陽のようというなら、私がそうだといつも言って下さるでしょう?私がお父様のコウ?にはなれないの?」
 「犼になるためにはまず僵尸にならねばならないが、タオタオは僵尸にはならないよ、きちんとした手順で埋葬されなかった哀れなものが僵尸に変ずるんだ。それにタオタオは犼にならなくたって、我が家の太陽さ。」
 書の読み書きを好んでいた父の話は彼女にとっては難しいことばかりであったが、内容が理解しがたかったとしても、穏やかに語る父の話を聞き流すことは、彼女にとっていつも好ましいことだった。しばらくはそうやって普段通りでいた彼女の父だが、しばらくするとかぶりを振って額を抑えた。頭痛がするから休むことにするよ、部屋に水を持ってきてくれと誰でもよいから伝えておくれ。そう言って彼女の父は肩を落とし部屋に戻っていった。見慣れない父の疲れた顔や暗い様子に心を痛めた彼女は、言伝を伝えようと厨房へ急いだ。厨房の使いに父が病気だと伝えると、それはいけないと使い達がにわかに忙しく働き出す。
 彼女はまた窓辺に戻って、つらつらと降り続く雨を眺めながら父へなにか出来ることはないか考えた。彼女が調子を崩した時は、彼女の母がずっと付き添って季節の果物を剥いてくれることを思い出していた。厨房を受け持つ使いが剥いた果物の方がよっぽど鮮やかに美しく、そして食べやすい形で切られているけれども、早く元気になって笑顔を見せてと母が心を砕いて用意をしてくれるものは、やはり彼女にとっては格別なものなのだ。そして、今の時期ならきっと桃が庭園に成っているはずで、彼女の父は彼女がそれを使いに習って剥いてみせれば、きっと喜ぶだろう、彼女はそう考えて、果物用の小さなナイフを懐にいれ、すぐに庭園へ向かった。
  庭園の桃は長雨の影響か、どれもまだ青く小さな実りであった。もっと良いのはないだろうか、そうやって庭園を奥へ奥へと彼女は進み、やっと一つ人が食べられそうに実っている桃の実を見つけ出した。その木は最も日差しが当たりやすい位置に植わった古い木で、その実はその木の頂上近くに頼りなく風に揺れていた。探していた途中から、いい実がないかもしれないという不安にかられていた少女は、発見できた喜びに意気揚々とその木に登った。
 そしてそれは拍子抜けするほど簡単に、長雨に濡れ弱っていた桃の木は途中まで登った少女を枝ごと振り落とし、少女は強く頭を打って、命を落とした。
 なんて健気で愚かで可哀相なタオタオ、少女の物語はここで終わってしまうはずだった。ここから先は彼女は知る由もない物語だ。


 茶の時間になっても現れない彼女に、彼女の母は友人の家々へ使いを走らせた。こんな雨の日に出かけるならば、近くの誰かの家であろうと考えたのだ、しかし見つからない。太陽が傾き始めたにも関わらず、だれも少女を見た人間すら見つからないのだ。部屋で伏せっていた父にそのことを伝えれば、真っ青になって今度は友人宅に定めず町中に使いをやった。少女が発見されたのは陽が落ち真っ暗になる寸前であった。長雨に頭から滴る血も洗い流され、まるでただ眠っているような少女の姿に、大慌てで医者を呼び寄せる。
 医者は一目見て彼女の命がもうないことに気づいた。紙のように白い肌には血の気がまるでなく、全身を濡らす雨水の量はほんの今倒れたようには見えない。脈もなかった、医者は本人も心から悲しんで、彼女の父へ報告しようとした。彼女の父はそれに激憤で返した。お前はなにもやろうとしていない、医者ならば治せるはずだ、ただ少し首を撫でただけで、なんなのだ、生きているのだ、私たちの娘はまだ生きて、確かにこの腕に。そんなことを叫びながら、儀式用の短刀を医者へ振り回した。使いの男が慌てたように彼女の父を抑え込み、医者に大事はなかった。もしもここで彼女の父が医者を傷つけていたら、もしかすればまた話は変わっていたかもしれない。
 彼女の父はとにかく酷い顔色をしていた、死んだ彼女よりもよほど悪い。彼女の母もすっかり気を失ってしまって、使いの女によって運ばれていった。あれだけ大事にしていた娘の突然の死に気が動転しているんだろう。家の使いも医者もそう考えた、一晩、いや数日寝込むかもしれないが、時がきっとこの家族を癒してくれるだろう。そう考えて、問題にすることはなかった。暴れる彼女の父を落ち着かせる為に、医者は帰っていった。
 翌朝、彼女の父は氷屋に赴き、部屋中を冷やせる大きさの氷を求めた。少女の悲劇を聞き及んでいた氷屋の主人は、きっと埋葬まで可能な限り美しく遺体を保つためだろう、可哀相に、とそう思い安い値段で氷を売った。そして彼女の父は昨晩に呼んだ医者とは違う医者を、所かまわず呼び始めた。彼らの家には周辺の医者が呼び寄せられ、そして全員が青い顔で出ていった。彼女の父の、いや、もはや狂った男の顔色は日に日に悪くなっていったが、血走った眼だけが爛々と輝いていた。
 翌週、男はまた氷屋に赴いた。医者をかき集めている話はすっかり噂になっていて、氷屋は哀れに思って氷を用意した。そろそろ倒れるか、誰かに諭されるかするだろう。そう考えていた。
 実際、彼女の父と仕事でも交友のあった親類が説得に彼の家を訪ねた。父親と違って回復をした風であった奥方に迎えられ、二人と対面し、この度は本当に悲しい事故で娘さんを亡くされて、と話し始めた男は、尋常ではない風体の父親が獣のような眼をして娘はまだ死んでいないと呻くように言うのに一瞬気圧されたが、気丈に続けた。悲しみも分かるが、だからといってこんな非効率なことを続けちゃいけないと説き続けた。
 「奥様からも旦那様にはっきり言うべきですよ、私たちの娘は天に還ったのだと。」
 「なにをおっしゃいますか?私たちの娘はまだ死んではいませんよ。ほら、ほらご覧になって、この時期に一週間も経っているのに、腐りもせず、ウジもわかず、やせ細るようにもならないの、生きているの、眠っているだけ、皆様誤解されているの。」
 男は耳を疑った、いかにも狂ったような父親と比べて、母親は事件の前と変わらないように見えていたのに、おかしなことを言い続ける。確かに二人と話をする前に見た少女の遺体は綺麗だったが、恐らくは使い達が気を聞かせて綺麗に保ってくれているのにも気づけていないのか。利発な夫妻だった在りし日の二人の姿を知る男は、あまりのショックにふらふらと家を後にした。
 家中にいた使い達も一人また一人と暇を告げて減っていった。給与の支払いは変わらずに家の貯蓄から支払われ続けていたが、狂った家族につかえることに耐え切れないものが日に日に増えていった。
 少女が亡くなってから三週間目、男は三度氷屋に現れた。氷屋は狂える男にもう氷は売れないと震える声で拒絶をした。もう在庫がないんです、後生ですからもう勘弁してください。そういう氷屋に、男はにこりともせずに言った、そんなことはない、覚えているぞ、貴店の納付額からすると店には二か月分の氷があってしかるべきだろう。元々の理知的な人物の言う台詞を狂った男が喋っていた。氷屋の主人が言いよどむと、男は店中に叩きつけるように金を放り投げた、用意をしろ、今あるだけ全部、通常の何倍でもいいから買ってやる。氷屋は項垂れ、かの家の食糧庫として使っていた室へと店にあるだけの氷を運び込んで、もう二度と男が訪れないように店を締め切ってしまった。
 餓えた獣のような風体で医者を探し求める男は、時折猛烈に怒り狂い荒れ狂うと娘の死因になった庭園の桃の木を鉈で切り刻む、そんな様子が多くの人に目撃された。家の小間使いたちも逃げるように出ていき、そうして元々の知り合いでかの家に訪れるものはほとんどいなくなった。

 怪しい風体のものたちや、素行が良いとは思えない行商人たちが、時折噂を聞きつけかの家を訪問しては去っていく。皆が口を閉ざし話題に出すことをしなくなった頃、一人の行商人がその家を訪れた。


 行商人が訪れたころ、少女の遺体は氷がうず高く積まれた室に移され、少女の両親もその室の周辺から離れなかった。周りにはそれまでの行商人やら占い師が残して、いや、売りつけていった、怪しげな薬が何種も何種も転がり、時折怒りをもって叩きつけられた跡があった。少女の両親はもうすっかり疲れ果ててしまった様子で、それでも美しいままに保たれている少女の遺体を見ては、涙も枯れてしまったのであろう瞳をどろりと濁らせる。
 「眠ったまま目覚めない娘さんを起こしたい、そうお聞きしましたが?」
 「あぁ、いかにも。いくらでも出そう、それが本当ならば。」
 行商人が懐から取り出したのは、高級そうな布に包まれた、二枚の護符だった。魂を呼び戻す、そういった呪です。青い墨で描かれた護符を呼び戻したい人間の額に、もう一枚の赤い護符は術者が持ちます。本当の価値は値千金ですが…そういって言葉を途中で切った行商人は、男に二枚の護符を握らせた。
 「無償で差し上げましょう、この呪の要求する代償は二人の命、販売するには重過ぎる。」
 「そうか、二人いるのか…それならば、そうだな、無償で、というならば試す価値もあろう。」
 男は行商人に背を向け室の中へ入っていった。大きな音が経つでもなく、しばしの時を過ごした行商人が、そっと室の様子を見れば、赤の符を握りしめ、少女が持っていた小刀で命を絶った両親の姿がそこにあった。

 本当にやるとは、行商人はそう正直に驚いていた。行商人が取り出した二枚の護符は本当は何の関係もない別々の護符だ、狂った人間がうなるほどの金を持っていると聞いたので、物見遊山気分でついた嘘だったのだ。襲ってくるだろうかと思えば、そんな結末になるとはと、驚くほどに美しく残っている娘の遺体に対して、今さっきまで生きていたとは思えぬほどにくたびれた、おそらくは限界など等に超えていただろう二人を哀れに眺めた。そう、驚くほどに娘の遺体は美しい、行商人はほんの少しの悪戯心で両親の血を吸った符を少女に貼られた符の上から貼りなおした。何も動かない、何も起こらない。行商人はため息をつき、扉の前で待たせていた仲間の所まで戻っていった。
 「よう、首尾よく行き過ぎた。家にある売れそうなもの全部運び出せ。奥にある室には入るな。…そうだな、俺たちの滞在最終日に偶然発見して、…お悔やみを申し上げたらそのまま出発だ。」


  犼は魃が変じてなるとされ、魃は僵尸が変じたものとも呼ばれる。僵尸はきちんとした手順で埋葬されなかった哀れなものがなるものだ。行商人たちが去った後、彼女は目覚めた。
 残っているのはほんのかすかに残った幸福な記憶の欠片、見覚えのあるような無いような二人の遺体を不思議に思いながら、彼女は喉の渇きを覚えて思った。あぁ、桃を採らねば。そうして彼女は室から出て、どこかに去っていった。彼女の行方は行商人も、町の人々も、哀れな両親も、誰も知らない。




文:ケイ https://twitter.com/k919919

原案:ゆーら https://twitter.com/82yura

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?