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恩師が救ってくれた中学生活

こんばんは。アメリカ移住数日前にもかかわらず、準備が終わってないあもかです。

最近わたしは自分のルーツを知りたくて、祖父母と一緒に家系図を作ったり、身内にインタビューをして記事を書いています。

祖母へのインタビューはこちら

人生を振り返る中でふと、今のわたしがいるのは血のつながりだけじゃない。と思うようになりました。今日は特にわたしの人生を好転してくれた恩師について書こうと思います。


どうやってみんなを笑わせるかが全てだった子ども時代

関西人のわたしは笑いが命でした。いかにウケるか、自虐ネタを何個も考え、ボケもするしツッコミもする子どもでした。

7歳の頃

受験の末に入った中学は、3年間同じクラスメイトと担任の先生。さあ!楽しい学校生活が始まるぞ!と思っていたものの、現実は担任の機嫌を伺い、覇気を失う時間の始まりでした。

担任の先生が気分屋だったんです。いつキレるかわからない。男子には厳しいけど、女子には甘い。それが原因で男女間に壁がありました。

担任に気を使う生活が2年続き、死んだ目をしていたらしいわたしたち。当時のわたしは、授業中に馬鹿な発言をして、いかにみんなを笑わせるかにこだわるようになりました。

冷め切った学校生活、唯一の救いは部活だった

そんな学校生活での生きがいは部活でした。野球部に入りたいけど勇気が出ず、「高校野球の応援演奏がしたい」と吹奏楽部に入部。ある程度吹けるようになってからは、沼のように部活にハマりました。

フルートを希望したらクラリネットになった

副部長になると部活愛はさらに加速。学校に行くのは部活のため。クラスは笑いが取れればOK、勉強をしなくなり何度も赤点を取りました。(笑)

わたしたちを生き返らせてくれた恩師

繰り上がりだと思っていた担任制度。なぜか中3の時に、全クラスの先生が変わりました。春休みに発表されたのは、全く知らない男の人。

(誰やねん。)と思いながら先輩に話すと、「羨ましい!めちゃくちゃいい先生!」と全員に言われました。

そして始まった中学生活最後の1年。

過度な期待をせずに現れたのは、普通のおじさん。でも実は中身は少年でした。生徒の本質を見抜くのがうまく、ひとりひとりと確実に距離を縮める人で、先生らしさはなく部活の先輩くらいの距離感でした。見た目は大人。ノリは子ども。

付属の高校進学に向けた三者面談の時。

先生「このままやと1番下のコースさえも受からへんぞ(笑)。部活も大事やけど、もうちょっと勉強しな高校留年するで」
わたし「今は夏の大会で代表校になること以外考えてない。なんとかなるって(笑)」

そういうと、黙って大会が終わるまで見守ってくれました。(無事に夢を叶えたあとは、燃え尽き症候群で勉強なんてしなかった。笑)

勉強そっちのけで大会のお守り作り

先生がもたらした変化

先生のおかげで他のクラスや男女間の壁がなり、毎日が驚くほど楽しくなりました。

寝落ち対策でノートを交換し合って起きる努力をしたり、クラスメイトに恋をしたり、休みの日に打ち上げをしたり。

放課後女子で男子の机をペットボトルキャップで埋めた笑

1年前からは信じられない変化でした。

温厚で明るい先生のもと、1番平和で楽しい時間でした。そして劇的な変化を感じたこの3年間で、誰のもとで生きるかが大事だということを学びました。

卒業してから

付属の高校に進学したので、会うたびに気にかけてくれました。高校を卒業するときにくれた手紙は、お守りとして辛い時に読み返しています。中学を卒業して10年以上経ついまも、先生に会うためによく母校に帰ります。

子どもらしさを取り戻してくれたおかげで、部活以外の日常も好きになって、苦痛だった学校が青春が詰まった第二の我が家になりました。

お揃いのリュックで過ごした中学3年生

「いまのわたし」は、今まで出会ったたくさんの人のおかげで構成されています。

何気ない話ができる幼なじみ、部活で一緒に青春した親友、大学時代の飲み友や、就活を支えてくれた友だち、愚痴を言って支え合った同期。

自分なりに生きてきた25年間の人生において、最も印象的で、最も憧れるのはあの先生でした。

来週から「オペア留学」という制度を使って、アメリカで現地の子どもを育てます。(オペアについてはまた別の記事で。)先生を見習って、安全を守りながら、同じ目線で関われる人間を目指します。


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