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「相手に対する良かれ行動」が自分を苦しめていた話

わたしは「周りの人の気持ちを考えている」とか「思いやりがある」とか、優しい人だと評価してもらうことがよくあります。

そしてわたし自身も、周りの人の目が気になるし、「〇〇してあげたら喜ぶかな」という思考が強いと自覚しているので、寧ろもっと自分が楽しいように、自分を喜ばせることに重きを置いて生活した方が良いのだろうとすら感じています。

だから「わたしは優しい人間だ」というのはあながち間違ってはいないと思うのですが、最近なんかしっくりこないのです。
何がしっくりこないのかというと「相手のことを考える」という基本姿勢とは真逆の感情を自覚する瞬間があること。

パートナーと二人暮らしのわたし。パートナーはとても温厚な人で、在宅ワーク且つゲーム好きな彼は基本的に毎日家にいます。お互い干渉しないのですが、わたしは何かと「してあげる」ことが多いのです。それはとても些細なことですが、彼の部屋に散乱している飲み終わったペットボトルの片付け、彼の部屋のごみ捨て、彼のワークチェアーの埃取り、彼が毎日飲むR1の買い出し。
一緒に暮らしているのだから特にそれらに対してマイナスな感情を抱いているわけではないのですが、わたしが「してあげている」と思ってしまっていることが、自分自身をマイナスな感情にいざなっているのだと思います。

すなわち、「してあげている」と見返りを求めてしまいがち。
「わたしはいつも○○しているのに、相手は何も返してくれない。わたしの為に時間や労力を使ってくれない」そういう感情になってしまうと、自分が良かれと思ってしている行動で相手を低く評価することに繋がってしまう。

そして、挙句の果てには、洗濯物を干しているときに、彼の靴下をベランダの床に落としてしまっても「彼のならいいや」とか寧ろほくそ笑んでしまったりするなど、パートナーの小さな不幸すら喜ぶようになってしまったりも。

自分の「相手に対する良かれ行動」が、相手の小さな不幸を喜ぶまでに進化してしまっているなんて。
こんなんではいかんいかん。どうにか軌道修正が必要です。なので、わたしはこれを機に、「相手に対する良かれ行動」をセーブしてみようと思います。

とはいえ、転がっているペットボトルの片付けもゴミ捨ても、家事の一環ですし、それ自体が「相手に対する良かれ行動」だというわけではなく、そこに「彼のためにやってあげよう」という気持ちが不随することが問題なのです。
なので、自分が疲れていたり、やる気のないときはやらない。ごみ捨てのついでに、時間と気持ちに余裕があれば彼の部屋の分も一緒にやる、くらいの軽い気持ちでいようかと。
目についてしまうと「やってあげたく」なってしまうので、物理的に見えないように部屋の扉は閉めておく。

そのような感じでしばらく様子を見ようと思います。

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