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静やかな恍惚@豊島美術館ーその1ー

「僕が過去のものでもなく、現在のものでもなく、とりわけ未来のものではなかったとき。僕が存在していなかったとき。僕が存在することができなかったとき。眼にも止まらぬ細部、種子の中に混じり合った種子、ほんの些細なことで道から逸らされてしまうに足りる単なる可能性だった時。僕か、それとも他者たち。男か、女か、それとも馬、それとも樅の木、それとも金色の葡萄状球菌。僕は無でさえなかったーなぜなら僕は何ものかの否定ではなかったのだからー」

J.M.G.Le Clezio『物質的恍惚』

               

2024年5月10日、13時

 それは、豊島の小高い場所にあった。直島からのフェリーが到着した港から4kmほど。海を左手に見ながら、起伏のある道をレンタカーで進んだ先だ。車から降りてまず心奪われたのは、その小高い丘から臨む海の美しさであった。空、浮かぶ島々、水が、種々の青を揺蕩わせていた。青白磁の色で空と海の境は揺れていた。浮かぶ島は勿忘草色に霞んでいた。波はあくまで優しい青碧の漣だ。ここで、スモークサーモンのサンドイッチに冷えたハーフボトルのサンセールでも合わせれば、それだけでもう十分に幸せだろうなと思う。


 さて、美術館の話をしよう。海を眼差すと視界から失われるその建物は、その丘の風景に緩やかに埋没していた。小高い丘陵から海に連なるなだらかな斜面に、土に沿うように低く楕円形になだらかに緩やかに膨らむ白。その白い膨らみの上部には、くり抜かれた大小二つの穴がある。外から見るとその穴はぼんやりと黒かった。それは、ナウシカの「こだま」の頭部によく似ている。


これが豊島美術館ー高さは最も高いところで4mと少し、広さは40m×60mーである。柱が一本もない、薄い皮膜のような構造。先ず土を盛ってかたちを作り、その上にコンクリートを打ち、固まった後に土を掘り出したという。上部2箇所の開口部には、ガラスはない。低いドーム状のコンクリートの構造ゆえ、音はとてもよく響く。

そこには、靴を脱いで、狭い小さな入り口をくぐって入る。入り口(出口でもある)は、海に向かって開けている北側ではなく、森に面した南側にある。入り口/出口は、26.27度前後の夏日の13時でも、木々が作る影に厚みがあるため少し薄暗かった。私たちは、黒い麻の服を着た20代半ばくらいの男性から、入り口で幾つか注意事項を伝達されたー「とても繊細な作品なので、足元の水滴や小石に触れたり踏んだりしないように」ー。

私は頷いて、そこに足を踏み入れた。まず認識したのは、建物の二つの開口部/穴が、光の水溜まり、のようなものを作っていること、そして、内部に居る殆どの人が、どちらかの水溜まりの円周付近に静かに座っていることであった。晴れた日の真昼だから、その二つの光の水溜まりは、周囲の影とはっきりとしたコントラストで眩しく光っていた。

光の水溜まり、という言葉がしっくりくるのは、実際にそこが「みずたまり」だからでもある。空を覗く穴と呼応する光の平面、その二次元の光の円の中心付近には、大きな水たまりがあり、そこに向かって何本かの細い水流が流れていくのだった。しゃがみ込んでよく見ると、その白い地面には小さな孔が所々空いていて、その孔からランダムに水がぽつりぽつりと湧き出ていた。その湧き出た水滴たちは、白い大地の計算し尽くされた緩やかな傾斜ゆえに、どこかで静かな一本の線となる。そしてその線たちは緩やかに日溜まりの方へ向かうのだった。線は、彼のタイミングで、一本のままで、あるいは、二本が一本になって、あの円形の光の中央に向かって泳いでいく。そこに向かう柔らかな繊細な水流は、眼差しのたびに新しかった。
そんな「光の水たまり」の円周に静かに人びとが佇んでいた。

                               その2に続く

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