見出し画像

【京都】四條橋河原夕涼

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『都名所之内

鴨川に架かる四条大橋の納涼を描いた一枚です。

鴨川では、旧暦の六月に川開きが行われ、納涼のための床几や縁台が中洲や浅瀬などに設置されました。女性たちが居るのは、鴨川の西側 先斗町ぽんとちょうに設けられた高床式の川床です。

下の地図でいうと、四条大橋の手前の左側になります。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『聖蹟圖志
※ この地図は、上が東になっています。

奥に見えるのは 東山ひがしやま三十六峰さんじゆうろつぽう の山々で、この位置から見えるのは 花頂山かちょうざん円山まるやま霊山りようぜん音羽山おとわやま清水山きよみずやま)などです。

四条大橋の向こう岸にも沢山の提灯が並んでいます。右に少し離れたところに見える提灯は、京都四条南座みなみざの灯りです。

📖

明治時代の京都案内から 四条納涼すずみの様子を引用してみます。

夏期かきに至れば   水上みずのほとり  磧頭かはらのうへ  に仮床かしやうをならべ、せきをまうけ とうてんじ、篝火かゞりをたき、とほして雅俗がぞく雑踏ざつたふす。之を四条しでう河原かはら納涼すゞみといふ。往時は芭暦六月七日の夜より十八日の夜に至るを定めとせしが、近年に及びては、七月の始め便時をえらびて川開きをなすことゝせり。

当橋の 東詰ひがしづめ劇場しばゐあり。南ノ芝居・兆ノ芝居としようして、両座りやうざ相対あひむかへり。此所このところ  を四条しでう  仲町なかのちやう  といひ、こゝより以東ひがし祇園ぎをん新地しんちと称し、酒樓しゆろう妓院がゐんのきをならべ、歌音かいん戸々こゝおこり、弦声げんせい樓々ろう/\ひとこゝにきたりて、平生へいせいあやまらざるものほとんどまれなり。じつにこのは京都の銷金鍋せうきんくわたり。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『きやうと:名所と美術の案内 上巻


銷金鍋しょうきんか」というのは、金を溶かす鍋の意から、お金を惜しげもなく使って散財する場所という意味です。

四条大橋が架けられたのは、祇園社の記録によると永治二年(1142年)に遡るそうです。宝徳二年(1450年)に架けられた四条大橋には鳥居が見えます。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『歴代年号:插画

その後、流出と架け直しを繰り返し(幕末だけでも、弘化三年(1846年)・嘉永三年(1850年)・嘉永五年(1852年)・明治六年(1873)に流されています)、明治七年(1874年)には洋風の鉄橋へと架け替えられました。

現在の四条大橋は、昭和十年(1935年)に流出した後に架け替えられたもので、昭和十七年(1942年)に完成しました。

📖

この絵を描いた長谷川貞信と同じ時代、江戸の歌川貞秀が祇園祭りと四条納涼の様子を描いています。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『皇都祇園祭礼四條河原之涼

祇園社から御旅所に向けて三体の神輿が四条大橋を渡ります。大変な人出と賑わいが、歌川国貞門人らしい画風と色使いで見事に描かれています。

画中に次の説明があります。
 ・ 四条より此方 六月六日 七日 祇園祭りなり
 ・ 三体の神輿は紙上橋を越て旅所にわたす
 ・ 四条より此方 六月十四日 十五日 御祭禮町の替あれば山鉾を出

祇園社から三体の神輿が御旅所へ向けて
四条大橋を渡ります
「水クハシ」「クワシモチ」「寿し酒魚店」
五条大橋に向けて 中洲はたくさんの人で賑わっています
三条大橋へと向かう川上側には
大からくり、見世物、芝居小屋が出ています

江戸っ子の貞秀が描くと、京の祇園祭りもきっぷの良さが感じられて面白いですね。一方、大坂の貞信が描いた四条納涼は、静かではんなりとして、普段のままの飾らない京都を感じることができます。

京都の夜の暗さがとてもよく描かれています
ゆるりとした帯結びと階段をのぼる女性のしなが
京都らしくはんなりと美しいですね


📖


※ 参考:国立国会図書館デジタルコレクション『絵本都の錦』『大博覧会奠都紀念祭京都名区案内記』『二十世紀之京都 天の巻』『浮世絵画集 上(四条納涼図)』Wikipedia「四条大橋

筆者注 新しく解読できた文字や誤字・誤読に気づいたときは適宜更新します。詳しくは「自己紹介/免責事項」をお読みください。📖