【京都】四條橋河原夕涼
鴨川に架かる四条大橋の納涼を描いた一枚です。
鴨川では、旧暦の六月に川開きが行われ、納涼のための床几や縁台が中洲や浅瀬などに設置されました。女性たちが居るのは、鴨川の西側 先斗町に設けられた高床式の川床です。
下の地図でいうと、四条大橋の手前の左側になります。
奥に見えるのは 東山三十六峰 の山々で、この位置から見えるのは 花頂山、円山、霊山、音羽山(清水山)などです。
四条大橋の向こう岸にも沢山の提灯が並んでいます。右に少し離れたところに見える提灯は、京都四条南座の灯りです。
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明治時代の京都案内から 四条納涼の様子を引用してみます。
「銷金鍋」というのは、金を溶かす鍋の意から、お金を惜しげもなく使って散財する場所という意味です。
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四条大橋が架けられたのは、祇園社の記録によると永治二年(1142年)に遡るそうです。宝徳二年(1450年)に架けられた四条大橋には鳥居が見えます。
その後、流出と架け直しを繰り返し(幕末だけでも、弘化三年(1846年)・嘉永三年(1850年)・嘉永五年(1852年)・明治六年(1873)に流されています)、明治七年(1874年)には洋風の鉄橋へと架け替えられました。
現在の四条大橋は、昭和十年(1935年)に流出した後に架け替えられたもので、昭和十七年(1942年)に完成しました。
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この絵を描いた長谷川貞信と同じ時代、江戸の歌川貞秀が祇園祭りと四条納涼の様子を描いています。
祇園社から御旅所に向けて三体の神輿が四条大橋を渡ります。大変な人出と賑わいが、歌川国貞門人らしい画風と色使いで見事に描かれています。
画中に次の説明があります。
・ 四条より此方 六月六日 七日 祇園祭りなり
・ 三体の神輿は紙上橋を越て旅所にわたす
・ 四条より此方 六月十四日 十五日 御祭禮町の替あれば山鉾を出
江戸っ子の貞秀が描くと、京の祇園祭りもきっぷの良さが感じられて面白いですね。一方、大坂の貞信が描いた四条納涼は、静かではんなりとして、普段のままの飾らない京都を感じることができます。
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※ 参考:国立国会図書館デジタルコレクション『絵本都の錦』『大博覧会奠都紀念祭京都名区案内記』『二十世紀之京都 天の巻』『浮世絵画集 上(四条納涼図)』Wikipedia「四条大橋」
筆者注 新しく解読できた文字や誤字・誤読に気づいたときは適宜更新します。詳しくは「自己紹介/免責事項」をお読みください。📖