見出し画像

大和名所図会 巻五

この note では『大和名所図会』の挿絵ページを翻刻します。本文ページは大正時代の活字版があるのでそちらを参照してみてくださいね。👀 → 国立国会図書館デジタルコレクション『大日本名所図会 第1輯 第3編』(大正8年)

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 5/63

古今 大哥所御歌
ふるきやまとまひのうた

しもといふ かつらき山に 降雪の
   まなく時なく おもほゆるかな

軒先にかかるのは
お正月の飾りでしょうか

※ 「古今」は、古今和歌集。
※「大哥所」は、大歌所おおうたどころ。平安時代初期に設置された大歌の教習・管理をつかさどる役所のこと。
※ 「やまとまひ」は、やまとまい。大和地方の風俗舞踊が源とされる古代の国風歌舞のひとつ。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 6/63

新古今
よそにのみ 見てや やみなん 葛城や
  高間の山の 峯の白雲
            讀人しらず

※ 「新古今」は、新古今和歌集。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 7/63

葛城かつらきやま
葛上かつらのかみ忍海をしみ葛下かつみしもぐんの西に つらなり、みねの西は河州にをよ [■は奈+隶] ぶ。第一峯を 高天たかま山といふ。又、金剛山こんがうせんとも呼ぶ。高さ三百丈、山頂さんちやうに寺院あり。山みやく 東に出て、高天たかま村 高天山にあり。

※ 「河州」は、河内国かわちのくに

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 8/63

葛城山かつらきやま
朝原あさはら 石寺いしてら 高天たかまてら

望葛城山 古詩體
葛城山上白雲邉 萬古千秋城日懸
云是昔人飛昇路 只今何處覚神仙
連山東南赴大嶽 栱如群帝朝中天
往昔妖星薄北斗 元弘天子下殿走
繚垣南山建行宮 谿谷●門分隘守
曾是宸庭夢賚弼 維南有木棒大日
英雄心事兼精忠 誰知管葛期儔匹
紆帯埩嶸●葛城 下略
南郭

 

※ 「南郭」は、江戸中期の儒者、服部はっとり南郭なんかく

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 14/63

朝原あさはら
『寛文記』曰、金剛山の本堂より廿八町坂中にあり。金剛山こんがうせん 七坊の内なり。此寺の 霊宝れいほうには、ゑんの行者 自畫じぐはの影、大黒天像は、傳教でんけう大師の作、釈迦しやか如来は春日かすがの作、田植たうへ毘沙門びしやもんとて いにしへ みづから 田をうへ給ひし尊像とかや。今に 御足みあしに土つきて有といふ。八王子社あり。中頃、比叡ひゑいさんの 八王子断絶だんぜつにおよびし時、此所より 勧請くはんじやう せり。それより 比叡ひゑいざん 繁栄はんゑいせしといふ。金剛こんがう童子堂 辨財天べんざいてんのやしろ、鎮守ちんじゆ三十八所社あり。

石寺いしてら
『寛文記』曰、金剛山本堂より廿八町紀州の方に至る坂中にあり。此寺も金剛山七坊の内なり。本尊は、石佛の薬師如来。これは役行者、百濟國より屓来り給ふと云傳ふ。このゆへに石寺と号す。境内は、房十町余あるよし、行者堂葛城明神、金剛童子堂、辨財天社、鎮守三十八所社あり。

※ 「寛文記」は、江戸時代前期に書かれたもので、著者は公卿の二条にじょう康道うやすみち。『寛文記』(国立国会図書館デジタルコレクション)
※ 「傳教でんけう大師」は、伝教大師でんぎょうだいし。天台宗の開祖、最澄のこと。
※ 「春日かすが」は、春日仏師。奈良時代の仏師、けい文会もんえけい主勲しゅくんのことを指していると思われます。
※ 「巍々ぎゞ」は、山などの高く大きいさま。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 9/63

金剛山こんごうせん

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 12/63

金剛山こんごうせん
葛城かつらぎ山頂さなてうにあり。大和志曰、正堂一宇、小祠二前、本州に ぞくす。其餘はみな河州におよぶ [■は奈+隶] 。東北は則 朝原寺、東南は則 石寺、𦾔名 猪石いなをかといふ。
  (略)
金剛山は、大和河内の堺にて、今の本堂は大和の内、九坊は河内なるよし。されども、境内はみな和州の内なりとぞ。『寛文大和寺社記』に見へたり。

※ 「寛文大和寺社記」は、『和州寺社記』(別称:寛文寺社記)のことでしょうか。『和州寺社記 2巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 11/63

新千載
かつらぎの 神ならねども 天川
  あくる詫しき かさゝぎの橋
         後嵯峨院

明けぬれば 近づき戻す 踊かな
  支考

※ 「新千載」は、新千載和歌集。
※ 「支考」は、江戸時代中期の俳人。各務かがみ支考しこう

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 13/63

堀川二 ● 百首
かつらぎや 木陰に光 稲妻を
   山伏のうつ 火かとこそ見れ
         兼昌

※ 「堀川二 ● 百首」は、平安時代後期の歌集『堀河百首』。
※ 「兼昌」は、平安時代後期の貴族、源兼昌みなもとのかねまさ

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 15/63

『称名院殿大和紀行』曰、高天たかまてら初陽しよやう まい朝来てうらいむめちかきす。風におれたるよし ● 一丈ばかりの かぶ 枯朽こきうしたるあり。かたはらに小枝ありて、朽てたに
  梅もたかまの 花の色に 八雲を聲に のこす鶯

梅もたかまの花の色に

※ 「称名院殿」は、室町時代後期の公卿、三条さんじょう西にし公条きんえだのことと思われます。出家後、称名院しょうみょういん 仍覚じょうかくと号しました。

八雲を声にのこす鶯
出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 14/63

高天たかま
高天村にあり。正堂一宇僧舎六院界内にわう宿しゆくばい蜘蛛窟ちちうのいはやあり。『寛文記』曰、高天たかまてらは金剛山の ふもとにして、草庵五六坊あり。いにしへは 伽藍がらん巍々ぎゞたりしが、何の代よりか頽廃たいはいして、わづかに三間四面の堂に十一面観世音、并、釈尊しやくそん霊像れいぞうを安置す。その かたはら に遍照院といふ草庵の庭前に、孝謙こうけん天皇の御宇に うぐひす やどりて和歌を ゑいしたる梅の木、今あり。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 17/63

茅原寺ちはらじ

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 18/63

茅原ちはらさん 金剛こんがう壽院じゆいん吉祥きちじやう草寺さうじ
茅原ちはら村にあり。一名、茅原ちはら寺。人皇卅五代 舒明じよめい天皇の 創建さうこんにして、役小角ゑんのしやうかく開基かいき也。本堂には 五大尊ごだいそんを安置す。伽藍がらんしんの社には 熊野くまの権現を勧請し、行者堂には小角卅二才の御時みづから 肖像せうざう彫刻てうこくして安置し給ふ。香精水かうじやうすい笈懸杉おいかけすぎ、これらも 役行者ゑんのぎやうじや遺跡いせきなり。抑、此 は行者 誕生たんじやうの所にして、舒明じよめい天皇六年の出誕より今に至て、一千百五十有余年の浄刹じやうせつなり。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 19/63

新六帖
霞たつ こせの春野に なく 雉子きゞす
  いつかありかを 人にしらるゝ
         光俊

※ 「新六帖」は、新撰六帖(新撰六帖題和歌)。『新撰六帖題和歌』(国立公文書館デジタルアーカイブ)
※ 「こせ」は、古瀬こせ
※ 「雉子きゞす」は、きじの古名。
※ 「光俊」は、鎌倉時代の歌人、藤原光俊ふじわらのみつとし葉室はむろ光俊みつとし

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 20/63

巨勢野こせの
古瀬村にあり。巨勢山は里の上方にあり。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 21/63

一字抄
女郎花 うしろめたくも 見ゆるかな
    あさの大野に たてりとおもへば
           修理太夫顕季

ひよろ/\と 猶露けしや 女郎花
     はせを

ひよろ/\と 猶露けしや 女郎花おみなえし

※ 「一字抄」は、和歌一字抄。『和歌一字抄』(国立公文書館デジタルアーカイブ)
※ 「修理太夫顕季」は、平安時代後期の歌人、藤原顕季ふじわらのあきすえ。歌道家の流派のひとつ六条藤家の祖で、六条修理大夫と号しました。
※ 「女郎花」は、秋の七草のひとつ。オミナエシ。
※ 「はせを」は、芭蕉ばしょうのこと。

二匹の蛇におどろく少年
出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 23/63

栄山寺の前なる音無川といふは、宇智川にして、其みなもとは 高間たかま山よりながれ、小和須川などを経て三在を めぐり、宇野を て吉野川に入。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 22/63

榮山ゑいさん
小嶋村にあり。役優ゑんのう婆塞うばそく 草創さうくりかえすの地にして、元正げんしやうていの御願 養老ようらう三年、藤原武智たけち麻呂まろの建立にして、伽藍がらん 巍々ぎゝたりしが、としふりて、いま わずかのこれる金堂の 本尊ほんぞん薬師佛やくしぶつ、日光月光、十二神将しんしやう 千百余年におよぶ。今までいにしへのまゝにして、金堂に 厳然げんぜんたり。又、八角堂は、武智たけち麻呂まろの長男 横佩よこはぎ 右大臣 豊成とよなり きやう造営ざうゑいにて、つくりもかへず其 まゝ也。求聞持ぐもんじしよ閼伽あか井は、弘法大師 密行みつぎやう 修練しゆれん𦾔跡きうせき也。

※ 「役優ゑんのう婆塞うばそく」は、役小角えんのおづののこと。
※ 「薬師佛やくしぶつ」は、薬師やくし如来にょらい
※ 「日光月光」は、薬師如来の脇侍わきじの像。薬師如来を中央に、向かって左に月光菩薩、右に日光菩薩が配置され、これを薬師やくし三尊さんぞんといいます。
※ 「十二神将しんしやう 」は、薬師如来を信仰する者を守護するとされる十二の夜叉神将。十二夜叉大将、十二神王とも呼ばれます。
※ 「求聞持ぐもんじ」は、求聞持ぐもんじほう。仏語。密教で、虚空蔵こくうぞう菩薩ぼさつを本尊として行う記憶力を増すための修法。虚空蔵こくうぞう求聞ぐもんほう
※ 「閼伽あか井」は、仏前に供える閼伽の水をくみ取るための井のこと。
※ 「𦾔跡きうせき」は、旧跡。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 25/63

大名の 寝間にもねたる 寒哉
        許六

五條さとは、宇智郡の驛にして、四方しほう旅客りよかくはこゝにゆきゝ、遠近ゑんきん産物さんぶつもこゝに 交易かうえきして、あさ市、ゆふ市とて、商家しやうか多く、さとの賑ひいはん方なし。『白虎通びやつこつう』曰、しやうとは、その遠近を あきなひ、四方の産物を通しこれを あつむこと也。

※ 「許六」は、江戸時代中期の俳人、森川もりかわ許六きょろく
※ 「白虎通びやつこつう」は、後漢時代に編纂された儒教の古義の解説書。編者は後漢の歴史家、班固はんこ

旅宿
出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 27/63

新古今
誰をかも 待乳まつちの山の をみなへし
   秋と契れる 人ぞあるらし
          小野小町

誰をかも待乳まつちの山のをみなへし
秋と契れる人ぞあるらし
出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 26/63

真土まつちやま
上野村の西にあり。『催馬楽さいばらちう秘抄ひせう』曰、大和紀伊の國境なり。『澄月哥枕』曰、信土まつちやま紀伊國云々。

※ 「催馬楽さいばらちう秘抄ひせう」は、室町時代に、一条兼良が書いた注釈書『梁塵愚案抄』の巻のひとつ。『梁塵愚案抄』は、神楽かぐら注秘抄ちゅうひしょう一巻と催馬楽さいばら注秘抄ちゅうひしょう一巻から成ります。
※ 「澄月哥枕」は、江戸時代中期の 西山にしやま澄月ちょうげつが編纂した『歌枕うたまくら名寄なよせ』のことと思われます。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 30/63

橘寺たちばなてら
宮𦾔斑鳩古道長
當年厩戸説經場
天花作雨續 ● ●
偏帯故 ● 盧橘香
     大江資衡

寺寂し はなたちばなに むかしの香
        湘夕

※ 「大江資衡」は、江戸時代中期の儒者、大江おおえ玄圃げんぽ。名は資衡。
※ 「湘夕」は、秋里あきさと籬島りとう。湘夕は字。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 32/63

『菩提寺縁起』曰
橘寺たちばなてらの西方より 金色こんじきてうとび来りて、講堂かうだうはしらに羽うちゆすめとまり、しばしゝて飛さりぬ。其 あとを見れば、一首の和歌を はみ付たり。

新古今
菩提寺の講堂のはしらにむしくひたる哥
  しるべある 時にだにゆけ 極楽の
    道にまどへる 世中の人

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 33/63

佛頭ぶつづせん 上宮院じやうぐうゐん 菩提寺ぼだいじ
一名、たちばなてらとも がうす。橘村にあり。安倍島山ともいふ。正堂、念佛堂、僧舎一區あり。人皇三十四代 推古すいこ天皇十四年七月、聖徳しやうとく太子 勝鬘しやうまん経を講せさせ給ふに、塵尾しゆびをとり、師子■しゝのざ [广+㘴] にのぼり給ひしかば、たゞ出家の如くにそ侍る。もろ/\ の名僧大徳、其妙義をたづね奉れば、答へさせ給ふに、いとあきらかなり。講をはるの蓮花れんげふりしきて地にみちたり。その花いと大にして二三尺ありとかや(平氏伝水鏡)。本尊聖徳太子十六歳の遺像は法空上人の作りける(此上人は久我殿息、持明院殿の時代の人とかや)。太子二歳の尊像は日域にちいきの㝡初也(玉林抄)。

佛頭ぶつづせんといふは、勝曼経しやうまんぎやう講會かうゑの時、清涼殿せいりやうでんまへ山頭さんとうに千佛の くし出現ありしより山號とせり(玉林抄)。此山今にありて、清涼山せいりやうさんともいへり。高十四五丈ばかり也。又、上宮院とは、上宮太子の御建立より院号とせり。たちばな寺とは、橘の都の皇后の地なれば 寺の名によぶならん。寺前石碑あり。縁起曰、弘法大師、一丈餘の碑を立給ふ云云。

※ 「勝鬘しやうまん経」は、大乗だいじょう 経典きょうてんのひとつ。勝鬘経しょうまんぎょう
※ 「塵尾しゆび」は、仏具のひとつ。なれしか(麋)の尾で作った払子ほっす

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 35/63

飛鳥社あすかのやしろ

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 34/63

飛鳥あすかやま口㘴くちぬいます 神社じんじや
飛鳥村上方、鳥形山にあり。神名帳三代実録に出。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 37/63

若鮎や かくかわる瀬に 住ならひ
   巻阿

古今
家をかりてよめる
 あすか川 ふちにもあらぬ 我宿も
   せにかはりゆく 物にぞ有ける
         伊勢

※ 「巻阿」は、江戸時代中期の俳人、加藤かとう巻阿かんあ
※ 「伊勢」は、藤原継蔭ふじわら の つぐかげの娘。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 36/63

飛鳥あすかがは
水源畑の山中より流れて、稲渕いなふちを経て細川とがうし、岡、飛鳥、四分等を経て今井に至り、蘇武そぶ川といふ。地黄を歴、十市といち郡に入。

※ 「歴」は、て。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 39/63

栖軽すがるといふ人、勅令をうけ、かみなり をとらへんと阿部山のかたへ ●● る。

『天文指南』云
らいは、陽氣やうきにして ぞくす。春夏は地氣上り ● る時に日ゆき天頂てんてうちかづき、地を てらして ねつをなす時は らいあり。

其勢ひは、たけく相せまつ搏激はくげきし、雲竅うんげうを ●● やぶりて、或は ●●きぬ [■は糸+魯] を さくが如く、又、●みならして聲をなすが如く也。

わがてう虚空こくうなり
勅令ちよくれいをしらずや

※ 「天文指南」は、江戸時代中期に書かれた『初学天文指南鈔』のことと思われます。著者は馬場ばば信武のぶたけ。『初学天文指南鈔』(国立公文書館デジタルアーカイブ)

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 38/63

いかづちのおか
雷土村にあり。『日本れい異記ゐき』曰、人皇廿二代 雄略ゆうりやく天皇の御宇廿三年に小子部こしべ栖軽すがるといふありけり。肺脯はいふの臣なれば、みかどちか随身ずいしんし、大安殿たいあんでんのぼりける時、帝と きさきとたはむれはし/\ければ、栖軽すがるもしばし 猶豫ためらいゐたるおりふし、いかづちてんにかけり、地にひゞきしかば、みことのりして、なんぢにて 雷神いかつちとりとめてきたれよかし。栖軽すがる、勅を かうむりて、むまはせて、阿部あべ山田やまだより 豊浦とようら追行おひゆく 虚空こくう白眼にらまへて「勅令ちよくめいぞ/\」と よびかけて、はせぬれども、磅硠ほうらうとして やむことなし。なを はせゆきて、「わがてう虚空こくうなり、勅令ちよくれいをしらずや」とよびかけゆく程に、いかづち つい豊浦里とようらのさと飯岡いゝおかあいだにして落たりけり。栖軽すがる、是をてかへり、かくとそうしぬれば、叡覧ゑいらんましますに雷神いかつち をいからかし、いろこをたてゝ、異光ゐくはう殿舎でんしやをかゞやかしけり。帝、をそれおはしまさせて、幣帛ぬさおくりかへさせ給ふ。其おちたる所を今にいかづちのをかとぞいひける。

※ 「小子部こしべ栖軽すがる」は、少子部ちいさこべ蜾蠃のすがる。『日本書紀』『日本霊異記』に見える雄略天皇雄略天皇の侍臣。
※ 「肺脯はいふ」は、肺、肝腎なところ。または、血を分けた親・兄弟、身内、親戚の意。
※ 「白眼にらまへて」の読み「にらまへて」は、にらまえて。するどい目つきでじっとにらむこと。
※ 「磅硠ほうらう」の「ほう」は石や水の落ちる音の形容、「ろう」は石がぶつかりあう音の形容。
※ 「叡覧ゑいらん」は、天子が御覧になること。
※ 「いろこ」の読み「いろこ」は、うろこ(鱗)の古形。
※ 「幣帛ぬさ」は、神に奉献するものの総称(布帛・金銭・酒食などの供物くもつ)。また、紙や布を切って木にはさんでたらした御幣ごへいのこと。幣帛へいはくぬさ

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 41/63

大職冠たいしよくかんのやしろ
藤原祖先ふぢはらのそせんつか

藤原祖先墳
出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 40/63

大職冠たいしよくかん藤原ふぢはら第址のていし
土人曰、藤原のほとりに大職冠たいしよくかん誕生たんじやうとて しげりたる岡あり。そのもとの うもれ井は 産湯うぶゆの井といへり。これ即、藤原の御井みい清水しみづにや侍りなん。

※ 「大職冠たいしよくかん」は、孝徳天皇の大化三年(647年)に定められた一三階の冠位の最高位。天智天皇の八年(669年)、藤原鎌足ふじわらのかまたりに授けられました。
※ 「第址ていし」は、邸址ていし。屋敷跡のこと。「第」は、ここでは、邸宅の意。
※ 「土人」は、その土地で生まれ育った人のこと。地元のひと。
※ 「うもれ井」は、荒れて塵や土などでふさがった井戸のこと。埋井うもれい

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 43/63

允恭いんぎやうてい皇妃くはうひにおとゝひを し、衣通そとをりひめ聖武しやうむていの御時、たま津嶋つしま明神とあられ、舜帝しんゆていぎやう二女●●● 娥皇がくはう女英じよゑいは、みかど南巡●んじゆんし給ふをしたひ、洞庭とうていに至り、なんだたけそめて、斑竹はんちくとなり、つゐに湘水しやうすいかみとなる。いづれも聖主せいしゆおもかげ、やまともろこしもことならず。

※ 「おとゝひ」は、兄弟、姉妹。おととえ。弟兄おととい
※ 「舜帝しんゆてい」と「ぎやう」は、中国古代の伝説上の帝王、尭と舜。徳をもって理想的な仁政を行ったことで、後世の帝王の模範とされました。
※ 「娥皇がくはう女英じよゑい」は、ぎょう帝の長女・娥皇がこうと次女・女英じょえいで、共に舜帝に仕えました。
※ 「なんだ」の読み「なんだ」は、なみだの音変化。
※ 「やまともろこし」は、大和やまと唐土もろこし

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 42/63

衣通そとをりひめの家地いへところ
在所不詳。衣通そとをりひめは、いとうるはしき形容みすがたころもよりとをりぬればかくこそいふなめれ。わか渟毛ぬけ二岐ふたまた皇子のみこ御女をんむすめなり。允恭いんげう天皇の きさき忍坂をしさか おほ中姫の御いもうとにぞいまそかりける。

天皇、衣通そとをりひめをめし給ひしかども、あね君のこゝろいかにぞやとまうきたり給はず。御つかひ七度にかさなりてのち舎人とねり 中臣なかとみ 烏賊いかつの使主をみ みことのり をうけまいり、衣通《そとをり》ひめのみもとにまかりて、「君まうきたらせ給はずは、われかならず つみをこなは れなんかし。たゞ こゝにてこそ身をうしなひけめ」とて、にはうちふして、七日を経たり。衣通《そとをり》ひめいなびがたくまう来たり給ひしかば、藤原ふぢはら殿屋とのやを建てすへられけり。天皇、藤原に 行幸みゆきなりまして、衣通《そとをり》ひめ消息ありさまをしのびながら 垣見かいまみさせ給ひしに、衣通《そとをり》ひめひとり きみまちがほにて(日本紀)

  わがせこが 来べきよひなり さゝがねの
   くものをこなひ こよひしるしも

天皇此歌をきこしめしてより 心にいとめておはしまして
  さゝらおがた にしきのひもを ときさけて
    あまたはねずに たゞ一夜のみ

※ 「いまそかり」は、いらっしゃるの意。いまそがり。
※ 「いなびがたく」は、断りがたく、辞退しがたく。いなぶ。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 45/63

岡寺おかてら

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 46/63

東光山とうくはうさん 龍蓋りやうがい
一名、岡寺をかてら舒明じよめい天皇の皇居、岡本宮おかもとのみやの地なればかくいふとぞ。天智天皇の御願、義渕ぎゑん僧正の開基なり。西国第七番の順礼所なり。義渕僧正いまだ わらはの時、天智帝いつくしみまし/\て 只 皇子と同じく岡本宮にして 成長ひとゝなりたまひ、出家しゆけし、やんごとなき智者となり。入唐 熟学じゆくがくし、帰朝きちやうのち、大和國におゐて 龍蓋りやうがい龍門りやうもん龍福りやうふく造営ざうゑいし、大寶三年、僧正ににんじ、神亀五年七月に入寂す。禮部れいぶちよくして、喪事さうじ監護かんごさせ給ひぬ(釋書)。

※ 「釋書」は、鎌倉時代に書かれた仏教通史『元亨げんこう釈書しゃくしょ』のことと思われます。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 47/63

逝囘丘ゆきゝのをか

風雅
 旅人のゆきゝの 岡は 名のみして
    花にとゞまる 春の木の本
            為家

※ 「為家」は、鎌倉中期の歌人、藤原為家ふじわらのためいえ

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 48/63

逝囘丘ゆきゝのをか
岡、飛鳥、二村の間にあり。

岡本宮おかもとのみや
舒明じよめい天皇の 皇居くはうきよ也。齊明さいめい天皇も岡本宮に遷り給ふよし日本紀に見へたり。玉林抄に曰、岡本宮は たちばな 寺のひがし、逝囘岡ゆきゝのをかすなはち いまの岡寺の地に いにしへ のこれり。

※ 「玉林抄」は、室町時代に書かれた『太子たいしでん玉林抄ぎょくりんしょう』。『太子伝玉林抄』(国立公文書館デジタルアーカイブ)

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 49/63

倭彦命やまとひこのみことのいはや
土人、武烈の いはやといふ。
おにのせつちん をにの肉几まないた 亀石かめいし

中央  倭彦命窟
左から  かめ石 鬼のまないた 鬼のせつちん

おにのせつちん をにの肉几まないた
倭彦命やまとひこのみことみさゝぎ より西なる田の中にあり。これ すなはち 石棺せきくはん、又は、石蓋いしのふたなり。いかに としふりぬればとて、いとおほけなき名をばいひはやし、世の人をまどはしけるぞや。

大和志曰、倭彦命やまとひこのみことはか石棺せきくはん窟中いはやのうち ほうあり。大石五へんをもつてす。磨礲まろう 精巧せいくうにして、いまなかばやぶる。石棺せきくはん石蓋せきがい路傍ろぼうすてたり。土人、鬼厠おにのせつちん鬼肉几おにのまないたと呼ぶ。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 51/63

壺坂寺つぼさかてら
  秋寒し をし合う石の 佛立
          ●●

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 50/63

壷坂山つぼさかさん みなみ法華ほつけ
清水谷村の東、壺坂山にあり。本尊は千手観世音にして、開創かいさうは南都の道基どうき上人なり(拾芥抄)。上人は、もと元興寺の住侶ぢうりよにて、智徳ちとく名譽めいよに聞こへ、大寶三年の頃かとよ、此山に光明る赫々かく/\たり。上人これをあやしみ、必霊地ならんとよちとり、日夜霊おういのり給ひけるに、ある時、千手のさうげんし、千げん ひかりをはなち給へり、上人 歓喜くはんぎななゝめならず。すなはち尊容そんようをうつし、水精すいしやうつぼに納め安置し給ふ。

※ 「拾芥抄」は、室町時代に編纂された百科事典『拾芥抄しゅうがいしょう』。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 53/63

益田岩舩ましたのいはふね
暮行春のかたみには、山の花のまた散のこり、岩つゝじ咲乱るゝころさと人、此 岩舩いはふねのうへにて、風光ふうくはうのぞみ、ながき日のならひ、海棠かいどうの花のねむれるおりふし、時鳥ほとゝぎすの初声におどろきけるも、一興とやいわん。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 52/63

益田池ますだのいけ
大和志曰、弘仁こうにん四年 ほるその あと北は 池尻いけじりを限り、南は 檜隈ひのくまにおよぶ。三瀬村の西南の丘の上へに 趺石あといしあり。俗に、岩舩いはふねといふ。高二丈 ばかりたて二丈五尺、横一丈三尺、上に両方の あなほりふねとし、碑身いしぶみは今亡びたり。其銘は しやく空海くうかい性霊しやうれいしやうに見へたり。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 54/63

益田ますだ旧名きうめうは、村井といへり。此地は 漢直あやのあたひ𦾔宅きうたくなり。嵯峨さが天皇 ひでり田畑でんぱたそこなふ事を うれひ給ひしかば、弘仁こうにん年中 さきの大和守藤原朝臣縄主なはぬし紀伊きいの末等すへひと、此所の地理ちりなる事を わきまへ、いけほらすべきよしさうしければ、やすく 勅許ちよくきよありしより、縄主なはぬし末等すへひと真圓しんゑん律師りつしと申合て、池を堀らせたり。大伴おほとも参議さんぎ國道くにみち、和州太守藤廣ふぢひろを池の 検校けんげう職にせられたり。あるひと曰、旱魃かんばつといへども、田を ゑきの功ありしより、益田池ましたのいけがうせられけるとなん云傳ひける。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 56/63

久米くめてら
雁落て 稲穂あらすな 久米の里
        蕣福

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 57/63

霊禅りやうぜんさん 東塔院とうたうゐん 久米くめてら
久米村にあり。聖徳しやうとく太子たいしをんをとゝ 久米くめ皇子わうじの 御願にして、本尊は薬師如来の坐像、みたけ八尺、又、皇子の感得かんとくの尊像は薬師佛のみたけ一寸壱分、黄金こがねつぼをさめて、本尊の 佛胸ぶつけう安置あんちし給ふ。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 58/63

釋書曰
久米仙者和州上郡人 入深山学仙法食松葉
服薜茘一且騰空過 故里會婦人以足𨂻
浣衣其脛甚白急 生染心即時墜落

つれ/\艸云
久米の仙人の物あらふ女のはぎのしろきを見て、つうをうしなひけんは、まことに手あしはだへなどのきよらに肥、あぶらつきたらんは外の色ならねばさもあらんかし。

※ 「つれ/\艸」は、徒然草つれづれぐさ。第八段に久米の仙人の話が掲載されています。
※ 「はぎ」は、はぎ。足のすねのこと。
※ 「はだへ」は、はだのこと。

久米の仙人の
物あらふ女のはぎのしろきを見て
通をうしなひけん
出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 60/63

天満山 長寶ちやうほう

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ『大和名所図会5』 62/63

長法ちやうほう
常門じやうと村にあり。寺前に石燈籠あり。勒曰、正和五年施入於長法寺。



筆者注 ●は解読できなかった文字を意味しています。新しく解読できた文字や誤字・誤読に気づいたときは適宜更新します。詳しくは「自己紹介/免責事項」をお読みください。📖