真如堂 の 総門から本堂へと続くなだらかな石段が描かれています。両脇に紅葉する美しい楓と、シンメトリーな構図が印象的な一枚です。
◇
正式名称は、鈴聲山 真正極楽寺。比叡山延暦寺を本山とする天台宗の寺院で、永観二年(984年)に戒算上人によって開創されました。
📖
真如堂の由来は、三人のエピソードから始まります。
① 阿弥陀如来像を彫った「慈覚大師 円仁」
② 阿弥陀如来像を比叡山から下ろし真如堂を開山した「戒算上人」
③ 真如堂が開創された場所、離宮の主「東三条院 藤原詮子」
『真如堂略縁起』からそれぞれのエピソードを引用します。少し長くなりますが、興味があったら読んでみてください。
① 阿弥陀如来像を彫った「慈覚大師円仁」
-女性を救う ”うなずきの弥陀” の由来-
※ 「白毫」は、仏の眉間にある白い巻き毛のこと。仏像ではその場所に水晶がはめられたりします。
② 阿弥陀如来像を比叡山から下ろし真如堂を開山した「戒算上人」
-夢でお告げを受ける-
※ 「済度」は、「済」はすくう、「度」はわたすの意。仏が、迷い苦しんでいる人々を救い、悟りの境地へと導くこと。
※ 「雲母坂」は、比叡山の山頂から修学院離宮の脇へと下る古道。
※ 「神楽岡」は、吉田山(京都市左京区南部)の別名。
③ 真如堂がされた場所、離宮の主「東三条院 藤原詮子」
-夢でお告げを受ける-
📖
真如堂の御本尊が、衆生済度、なかでも女人を救うという阿弥陀如来像「うなずきの弥陀」であるのは、東三条院 藤原詮子がその縁起に関わったからだろうと思います。
ここで、彼女の人生をすこし見てみましょう。
東三条院 藤原 詮子 は、応和二年(962年) 摂政関白・太政大臣 藤原 兼家の次女として生まれました。父・兼家は、藤原摂関家の三男の家柄でありながら、摂関家の嫡流としての地位を確立した人物です。以降、兼家の子孫が摂政関白を独占し、藤原 道長・頼通の栄華の時代へと続くことになります。
十六歳で入内した詮子は、円融天皇の女御となります。十八歳で男の子を出産、わずか七歳(数え)でその子が天皇に即位します。第六十六代一条天皇です。
一条天皇を中央にして繰り広げられる宮中の派閥や人間模様は、平安時代中期に花開いた仮名文学・女流文学に大きな影響を与えました。
『枕草子』で知られる清少納言は、一条天皇の 皇后 藤原 定子 に仕えていた女房で、一方『源氏物語』を書いた紫式部や『和泉式部日記』で知られる和泉式部は、一条天皇の 中宮 藤原 彰子 の女房として仕えていました。
詮子からみると、定子も彰子も、姪であり義理の娘である、という関係になります。(定子は兄・道隆の娘、彰子は弟・道長の娘)
また、一条天皇には、ほかに三人の女御(藤原 義子、藤原 元子、藤原 尊子)がいましたが、三人とも詮子と親戚関係にあります。
藤原氏の摂関政治において、天皇家と婚姻関係を結ぶために女性が重要な役割を果たしたことは想像にかたくありません。
兼家の娘として生まれ、一条天皇の母として四十才で亡くなるまで、常に権力の中枢に身を置いた藤原詮子が、殊に女性を済度するという阿弥陀如来像「うなずきの弥陀」を自身の離宮に安置し、また、一条天皇の勅許をもってその本堂が創建されたというのは、とてもうなずけることと思います。
その後、応仁の乱によって堂塔は焼け落ちますが、難を逃れた阿弥陀如来像は千年の時を越えて、今も真如堂の御本尊として人々の信仰を集めています。
📖
そのかみの 玉のかつらをうちかへし
いまは衣の うらをたのまん
東三条院
紅葉が美しい秋の真如堂で、本堂への石段をゆっくり上りながら、東三条院 藤原詮子の人生に思いを馳せるてみるのもいいかもしれませんね。
🌿
参考:国立国会図書館デジタルコレクション『大日本仏教全書117(真如堂縁起)』『天台霊華(真如堂延喜)』『真如堂略縁起』『京都名勝誌』『京都名勝案内記』『国民の日本史 第3篇』真如堂Webサイト「真如堂について」
筆者注 新しく解読できた文字や誤字・誤読に気づいたときは適宜更新します。詳しくは「自己紹介/免責事項」をお読みください。📖