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【京都】真如堂楓林

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『都名所之内

真如堂しんにょどう の 総門から本堂へと続くなだらかな石段が描かれています。両脇に紅葉する美しいかえでと、シンメトリーな構図が印象的な一枚です。

正式名称は、鈴聲山れいしょうざん   真正極楽寺しんしょうごくらくじ。比叡山延暦寺を本山とする天台宗の寺院で、永観二年(984年)に戒算かいざん上人によって開創されました。

総門をくぐって本堂へと向かう石段

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真如堂の由来は、三人のエピソードから始まります。

① 阿弥陀如来像を彫った「慈覚じかく大師だいし 円仁えんにん
② 阿弥陀如来像を比叡山から下ろし真如堂を開山した「戒算かいざん上人しょうにん
③ 真如堂が開創された場所、離宮のあるじ「東三条院 藤原詮子ふじわらのせんし

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『京都名所案内記

『真如堂略縁起』からそれぞれのエピソードを引用します。少し長くなりますが、興味があったら読んでみてください。

① 阿弥陀如来像を彫った「慈覚大師円仁」
  -女性を救う ”うなずきの弥陀” の由来-

本尊は、慈覚じかく大師だいしの真作也。天長年中 志賀郡苗鹿なふか明神覚大師かくだいしに対面ありて、如法経堂番神入衆望請ありける時、栢木かやのきはしら一本 かの明神より助成あり。この木のもときり、毎夜 放光明くわうみやうをはなつ之間、大師 あやしたまひて、うちわりて見給みたまふに、一片ひとかたは坐像の仏体、一片は立像の尊形、木の目にあざやかに見ゆ。仍以よつてこの異木いぼくをもつてまづ、弥陀坐像一体 蓮華部れんげぶの印造いんざうりふたまひて、大師、隨身奉持ふぢし給ひしか後には、日吉社ひよしのやしろ念佛堂の本尊となりたまふ。今、一片の木立きりふ像の形あるをは憶念したまふ事ありて、その時は造立したまはさりし也。
  (略)
さて、以前のこしおかれし片木にて、弥陀立像一刀いつたち三礼さんらいに彫刻して、かの船中出現の化仏けぶつ腹身ふくしんたまふ御長みたけ三尺三寸九品くほん来迎印らいがうのいん)。当堂本尊これ也。しかるに、眉間の毫光余仏にかはりたる本尊也。これすなはち、白毫相いまだ分まはしはかりして玉をいれたまはで、大師もうしたまふ。当山、円頓ゑんとん行者 四種三昧の本尊となりたまへとまうしたまふに、三度かふりをふりたまふ。大師、悲喜ひき更流こうるして、御本願をまんさんとおほさい聚楽にくだしたまひて、一切衆生を引攝いんぜふたまべき中にも、罪ふかき女人等を救ひたまふべしと申させたまへば、三度うなづきまします。ありがたしとも言辞ごんじに述べかたき事也。既に生身しやうじんの尊体にていますれは、かさねて刀をたつべきやうなしと恐怖をいだひて、白毫の玉をいれたまはざる也と。

この上者うへはすなはち如来を聚楽に下したまふべきを、生身の仏体なる故に大師 執心したまふて、在生の間はなほ叡山に  置奉おきたてまつり 常行堂に安置したまふと。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『真如堂略縁起

※ 「白毫びゃくごう」は、仏の眉間にある白い巻き毛のこと。仏像ではその場所に水晶がはめられたりします。


② 阿弥陀如来像を比叡山から下ろし真如堂を開山した「戒算上人」
  -夢でお告げを受ける-

円融院 御宇、永観二年(甲申)年の春、戒算かいざん上人しやうにんの夢に老僧きたついはく、我は常行堂よりきたれり。聚楽に出て一切群類を利益し、殊に女人を済度せむと思へり。急ぎ下山せしむべしと告給つげたまふ事  及度々たびたびにおよぶ  あいだ此由このよし 披露三院ひろうさんゐんの衆議をなしけるに、かの 告夢はかりはいかがとまうす。衆徒おほくありけれども、大師在世造立の時うなつかせたまひける事あれば、不能抑留よくりうにあたはず して戒算の所好しやかうまかせて下山あらしめ、まづ 雲母坂きらゝざかの地蔵堂まで遷座せしむ。されども山下にていずれの在所か 可然しかるべき場地ぢやうちならむと沙汰しける。その夜、又、老僧のつげいはく神楽岡かぐらをかほとり長尺余たけしやくよ檜木ひのき千本せんぼん一夜中ひとよのうちおひたる所あるべし。これすなはち 仏法有縁之地、衆生救度之所、末世相応 真正極楽の霊地也と。(真正極楽寺、この夢詞ゆめのことばによるか)

この夢におどろきて、上人急ぎ弟子僧を下して見せしむるに、女院離宮の境内に、日比ひごろもみぬ檜木ひのき生出おひいでたる事、歴然也。今の東山真如堂の敷地、是也。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『真如堂略縁起

※ 「済度さいど」は、「済」はすくう、「度」はわたすの意。仏が、迷い苦しんでいる人々を救い、悟りの境地へと導くこと。
※ 「雲母坂きらゝざか」は、比叡山の山頂から修学院離宮の脇へと下る古道。
※ 「神楽岡かぐらをか」は、吉田山(京都市左京区南部)の別名。


③ 真如堂がされた場所、離宮のあるじ「東三条院 藤原詮子ふじわらのせんし
  -夢でお告げを受ける-

同夜、白河女院(一条院の母后、東三条院)御夢に一人の老僧、我は叡山常行堂より来れり。女人済度の本願ある故に聚楽にくだる。先、汝の宮中に来至らいしすべしと告給つげたまへり。この 瑞夢ずゐむおどろたまひて、山上へ専使せんしをのぼせ給に、上人より檜木のおひたる在所みせに下しける。僧、西坂にしざかにてゆきあひて、たがひこのまうしいたし、不思議之よし 相語あひかたりて 両方へあがりけると、さるあひだまづ、女院の宮中へぞ遷座ありける。そのころ山門さんもん碩学せきがくあまた喚請し給ひて、厳然の儀式めでたかりけり。五障三従の女身をもとく済度し給ふ事しかなり。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『真如堂略縁起

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真如堂の御本尊が、衆生済度しゅじょうさいど、なかでも女人を救うという阿弥陀如来像「うなずきの弥陀」であるのは、東三条院 藤原詮子ふじわらのせんしがその縁起に関わったからだろうと思います。

ここで、彼女の人生をすこし見てみましょう。

東三条院   藤原ふじわらの   詮子せんし/あきこ  は、応和二年(962年) 摂政関白・太政大臣 藤原ふじわらの 兼家かねいえの次女として生まれました。父・兼家は、藤原摂関家の三男の家柄でありながら、摂関家の嫡流としての地位を確立した人物です。以降、兼家の子孫が摂政関白を独占し、藤原ふじわらの 道長みちなが頼通よりみちの栄華の時代へと続くことになります。

十六歳で入内じゅだいした詮子は、円融天皇の女御となります。十八歳で男の子を出産、わずか七歳(数え)でその子が天皇に即位します。第六十六代一条天皇です。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『源氏物語絵巻 [1]

一条天皇を中央にして繰り広げられる宮中の派閥や人間模様は、平安時代中期に花開いた仮名文学・女流文学に大きな影響を与えました。

『枕草子』で知られる清少納言は、一条天皇の 皇后  藤原ふじわらの  定子さだこ/ていし  に仕えていた女房で、一方『源氏物語』を書いた紫式部や『和泉式部日記』で知られる和泉式部は、一条天皇の 中宮  藤原ふじわらの  彰子あきこ/しょうし  の女房として仕えていました。

詮子からみると、定子も彰子も、姪であり義理の娘である、という関係になります。(定子は兄・道隆の娘、彰子は弟・道長の娘)

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『源氏物語絵巻 [2]

また、一条天皇には、ほかに三人の女御(藤原ふじわらの   義子ぎし/よしこ藤原ふじわらの   元子げんし/もとこ藤原ふじわらの   尊子そんし/たかこ)がいましたが、三人とも詮子と親戚関係にあります。

藤原氏の摂関政治において、天皇家と婚姻関係を結ぶために女性が重要な役割を果たしたことは想像にかたくありません。

兼家の娘として生まれ、一条天皇の母として四十才で亡くなるまで、常に権力の中枢に身を置いた藤原詮子が、殊に女性を済度さいどするという阿弥陀如来像「うなずきの弥陀」を自身の離宮に安置し、また、一条天皇の勅許をもってその本堂が創建されたというのは、とてもうなずけることと思います。

その後、応仁の乱によって堂塔は焼け落ちますが、難を逃れた阿弥陀如来像は千年の時を越えて、今も真如堂の御本尊として人々の信仰を集めています。

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そのかみの 玉のかつらをうちかへし
いまは衣の うらをたのまん

東三条院

紅葉が美しい秋の真如堂で、本堂への石段をゆっくり上りながら、東三条院  藤原詮子の人生に思いを馳せるてみるのもいいかもしれませんね。


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参考:国立国会図書館デジタルコレクション『大日本仏教全書117(真如堂縁起)』『天台霊華(真如堂延喜)』『真如堂略縁起』『京都名勝誌』『京都名勝案内記』『国民の日本史 第3篇』真如堂Webサイト「真如堂について

筆者注 新しく解読できた文字や誤字・誤読に気づいたときは適宜更新します。詳しくは「自己紹介/免責事項」をお読みください。📖