【日記】美味しいものを食べて問う。感じたままに生きているか?
「30歳でエスプレッソのマシンを触ったときに、なにこれ面白っ!って思ってさ、それでコーヒーが好きって気付いたから仕事にしたんよ。それ以上に好きなこととかやりたいことってほんとなくて。わたしやりたくないことはできなくてさ・・・」
若々しくて、いつも人に囲まれていて、楽しそう。家に帰ったらご飯を作ってくれている優しい旦那さんがいて、休みの日には娘さんとの家族団らんの写真をアップ。どこからどうみてもキラキラした人生を送っていて、これまでもそうだったんだろう、と見える40代のとある先輩。
SNSでの姿や、仕事で見せる顔がすべてではないとわかってはいるけれど、素敵な人に見えることは間違いない。先輩は「やりたい」「やりたくない」「好き」「嫌い」「美味しい」「美味しくない」がとてもはっきりしている。
自分の感じたあらゆる感覚を言語化する能力にとても長けているからだろうか、なにに対しても「自信がある」ように私からは見える。すごく素敵な人だ。
そんな先輩が、何気なく言った「やりたくないことはやりたくないから」という言葉が、今の私にとても響いた。
わたしはまだまだ自分の感覚に鈍感だ、と感じたからだ。極端に言えば、何事にも「好き」か「嫌い」かを感じたり判断したりすることが咄嗟にはできない。もしかしたら何かを感じているのかもしれないけれど、ずいぶん後から気付くことが多い。
味覚と関連付けて考えると、自分が感じているはずの感覚への鈍感さが顕著に表れる。
例えばコーヒーを淹れてお客様に提供するとき、「美味しくない」ものを出せないことは当たり前だ。でも「美味しくない」の反対が「美味しい」とは限らないと思っている。
「美味しくない」と「美味しい」に一つだけラインを引くのだとしたら。そのラインは99点と100点の間なのか、79点と80点の間なのか。そしてその味はなぜ100点なのか、80点なのか。それらの理由付けがとても難しいと感じる。
他にもある。
普段、誰かとご飯を食べるとき。「美味しい!!」と相手が先にリアクションをしたとき、私はどう反応をすればよいのか戸惑ってしまう。美味しいねって言えばいいだけなんだろうけど、どう反応するのが「いい感じ」なんだろう、と思う。
美味しくないわけじゃないけれど、美味しいとは思っていない自分がいる。「美味しい」を共に味わいたいだけなのに、どこかに「言わないと」と感じている自分がいる。
二択で聞かれる質問が苦手なのかもしれない。はっきりしない私は自信がないように見えるだろうし、実際にそうだから答えられない。何を感じているのかすぐに分からない。
感じたことが、なににも邪魔されずにそのまま表現できるようになりたいし、感じたままに生きたいな、と思う。
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