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生存戦略〜回復の道のり編〜

 前編で、マリナさんの悪の護身術について延々と勝手な解釈を述べさせていただきました。

 で、護身術について語ったはいいのだけど、改めてマリナさんの疑問を振り返ってみると

”でもこれは悪の護身術だから、精神医学・心理学的に推奨されるべきなのか分からない。精神医学・心理学的にどう位置付けられるのか、これらはのちのち心に悪影響を及ぼさないのか”

はい、後半に答えていないですね。
「これらはのちのち心に悪影響を及ぼさないのか」

 というわけで、引き続き

の姿勢で読んでくだされば幸いです。

4.バランスを取れない危険性

”「怒り」を鎧として扱い、中身の生身の人間を大切に扱ったままで過酷な状況を生き延び、安全な場所で上手く鎧を脱いでいく”

 前半では、これがどういう意味合いを持つかを考えた。
 後半では、これが及ぼしうる悪影響についてを考えたい。

 前半で、怒りを抑えて自分に向けたりすることなく、かといって怒りに自分を乗っ取られないように、バランスを取ることがとても大切だと述べた。そして、それが非常に難しい、ということも。

 なのでまずバランスが取れない場合のリスクがある。

 例えば、極端に言えば、怒りを自分に向け続けてしまっては、血の出ない自傷行為を繰り返していることになる。逆に、「クズだ下等動物だ」と自分の怒りを膨らませすぎて暴走させてしまえば、他害に繋がる恐れもあるだろう。

 そしてそこまで行かなくても、「クズだ」と切り捨てることに専念するあまり、世界に対して閉じてしまって、期待すべきところで期待出来ず、色眼鏡で世界を見るようになり「自分だけが偉い」世界で生きるようになるかも知れない。鎧に身体を乗っ取られ、「クズ野郎ども死すべし」という価値観で固まってしまうかもしれない。

 正直、そういったリスクは、言い出せばきりがない。想像しすぎて私はいま頭が痛い。
 だから、リスクがないわけではない、という意味では、確かにマリナさんの方法論は「悪魔との契約」と言えなくもない。

 でも、考えてみてほしい。
 どの方法を取ったって、心を扱う以上はリスクがある。そんなことを言い出したら、全部「悪魔との契約」だ。

 生存には怒りが必要で、どのみち自然発生するものであるなら、それにうまく機能を与える道を模索すべきだし、模索の途中でおかしな方向に行ってしまったなら、気付き次第帰ってこればいい。

 それに、この方法論には「軌道修正」のための布石がきちんと置かれている。それは、「自分をみずみずしく保つこと」。柔らかい心を死守することができていれば、必ず軌道修正ができる。

 そのための方法として、マリナさんは「好きなことを見つけて」と言っている。好きなことを楽しむ感覚、ひいては人生を楽しむ感覚を見失わないように。
 それに、好きなことを見つけて楽しむことが出来る好奇心のある心は、開かれている(参考:開放性)。開かれた通気性の良い心は、世界に対して閉じてしまうリスクを軽減してくれるだろう。


 ついでに、僭越ながら私からも「自分をみずみずしく保つ」ための戦略を提案しておく。それは、「自分のオリジナルを育てること」。

 自分のオリジナルを育てる、というのは、自分と他者の境界を引き、主体性を養うということ。
 自分の価値観を育て、選択する力を育て、他の誰かではない自分を育て、誰かと自分の境界線を確立すること。
 自分が確かに自分であり、自分の人生が確かに自分のものであるという感覚、とも言えるかも知れない。出来るだけコントロール感を手放さないでほしい。

 ちょっとイメージが湧かないと思うので、マリナさんのように私の体験を例示しておきたい。

 私は「勉強しなさい」と親にプレッシャーを掛けられるのが大嫌いだった。「勉強しろと言われて勉強する人間を作りたいのかくだらん」と思っていた。だから、親に言われて勉強をするのは絶対に嫌だった。けれど、それで勉強をしなかったら、自分が育たず自分が損をする。だから傍から見たら「言われて勉強してる」ように見えたかも知れないが、私は「自分が好きだからしている」と念仏のように心で唱え続け勉強した。やらないという選択も可能だったが、自分の意志でやる方を選択した、と。
 一つ一つ、そういう意識を積み重ねた。

 リスクから逃れられないのなら、リスクヘッジをすればいい。
 私が提案するリスクヘッジは、軌道修正出来る自分を準備しておくこと。


5.生き延びた後の心

 さて。
 では、鎧をうまく着込み、生身の自分も柔らかく保ち、生き抜いたその後。マリナさんも言っていたけれど、まず鎧を脱ぐのが大変。ここの作用も少し触れておきたい。

 何年も何年も「怒り」をもって戦うことでバランスをとってきたらどうなるか。
 こんどは逆に、そのバランスが崩せなくなるという事態に陥る。

 「怒り」というのはなかなかにエネルギーを持っていて、活動のモチベーションになることは少なくない。そのため、そのままそのエネルギーで貫き通そうとする人もいるだろうが、個人的にはあまりおすすめしない。犠牲が大きいからだ。
(人類の芸術のために犠牲は厭わない、って人もいるとは思う。芸術は爆発だし)

 それに、私に言われるまでもなく、「怒り」続けることの犠牲の大きさには気づいていて、本当は自分から怒りを取り出したいと思っている人は多いんじゃないだろうか。
 だけど、バランスが保てなくなるから、また怒りのエンジンを稼働させてしまう

 己の内に怒りを飼い、それをエンジンにしてきた人が、「怒らなくて良い安全な世界」に身を投じると、それまで取れていたバランスが崩れ、安全な世界にいながら不安定になるという現象が起こる。
 ずうっと怒りをエネルギーに戦ってきたのに、そのエネルギーが不要なものとされて、完全にバランスが崩れる。ガス欠状態
 虚しさ。焦り。不安定。それらが胸いっぱいに広がり、自身を苛む。
 だからなかなか脱ぎにくい。

 下手をすりゃ、また「怒りが必要な世界」に近づいて行ってしまう。自分の中のバランスを取るために。そうしてまた、「怒り」ありきの自分に戻ってしまうのだ。

 これは「長期に渡る怒り」の後遺症と言ってもいいと思う。もう安全な場所にいるのに、「安全な場所での安全な過ごし方」が分からない。ネガティブな感情に掻き立てられる以外の、モチベーションの保ち方が分からない。そういう後遺症。

 さて、これについては、正直、ぱっと良い手段が思いつかない。心理臨床の知識の中で、ぱっと引き出せる引き出しが思いつかない。
 えっ、ごめん。
 そこを聞きたかったのに、って?
 ご、ごめん。
 すみません。メンタリストDaigoさんとかなら知ってると思います。

 でも、そうですね。そうなんです。
 カウンセリングでも基本的には、ともに落ち込みや不安と闘いながら、揺れたり振れたりしながら、少しずつ「怒らなくていい自分」を確立していくのです。一輪車を乗り換えるみたいに、バランスも一朝一夕に乗り換えられたらいいんですけれど。

 ただ、そういうことが起こるという知識や心構えがあるとないとでは大きく違います。そういう介入はたくさんします。

 何もしないで、ただ平和に身を委ねる。
 起こる感情をただ眺めて、リラックスし続ける。
 あるいは、そういうヨガ療法や瞑想なんかもアリかも知れません。

 ちなみに、私の経験からの個人的なお勧めはこちら。
 「寝て起きてご飯を食べてうんちした」自分を褒める生活
 基本的で、平々凡々な、日常の基礎の基礎。それをもう一度、慈しみなおす。刺激のない平和を愛する。

 間違っても、「仕事のあれをやりきった」なんて褒めたりしない。前向きなモチベーションを育てないといけないんだから、エンジンを作り直さなきゃいけないんだから、一気にそんなアダルトなことを言ってはだめ。赤ちゃんに仕事が出来ることを期待しないのと同じ。

「わー、立派なうんちが出たね〜偉い偉いだね〜」

 ここから始めましょう。どれだけ自分の中で期待値をコントロール出来るか、が問われます。自分の中の自分を育てる意識が大切です。焦っては事を仕損じます。要注意。

 あとは、当然、怒りの湧く人と関わらないこと。
 乗り捨てた一輪車のことは忘れて、目の前の新しい一輪車でうまくバランスを取ることに集中することが大事。とても。


6.生き延びた後の身体

 何年も何年も「怒り」を持って戦っていたことによる後遺症。それは、心だけにとどまらない。身体にまで影響を及ぼす

 考えてみてほしい。 
 ずっとFight or Flight (闘争・逃走)状態、臨戦態勢に身体が置かれたら、どうなるか。とんでもない負担だと思いませんか。
 とんでもないんです。

 ずっとアドレナリンが出てる、ずっと興奮してる、ずっと交感神経優位…。医者じゃないので細かいことは書きませんが、ずっと身体レベルで「異常事態」なわけです。
 脳の萎縮など、回復が厳しいダメージさえありえます。(参考

 安全な場所に身を置いているのに、またいつ危機が迫ってくるんじゃないかと、不眠、過剰反応、フラッシュバック等々、身体が勝手に「臨戦状態」を喚起してしまう。いくら、「もう大丈夫だよ」と言ったところで、身体の方はそうやすやすとは信じてくれない。

 ちなみに、こういった身体レベルのダメージについては、心理セラピーや服薬などの手段が複数存在している。

 心理セラピーの方については、一応専門だったので、具体名は挙げずに少し語るけれども、基本的にはどの手法でも「二重の注意で過去を振り返る」というのが有意義な点なのではないかと思ったりする。

 何せ臨戦態勢の記憶なので、心身ともにその時の状態に陥りやすい。あっという間にフラッシュバックし、あっという間に動悸がし、あっという間に頭の中がそれでいっぱいになる。下手すると意識が飛んでしまう(前回記事の逃走反応)。

 その、心身ともに全振りで過去に向いてしまっている注意の何割かを、どうにかして「今ここ」へ向ける。そうして、「安全」と「危険」に同時に注意を向ける。
 歌いながら、身体を動かしながら、話しながら。どうにかして、今ここの安全に注意を向けながら、距離をとりながら、過去を振り返る
 そうやって、臨戦態勢の記憶を過去のものにして、身体に「今は安全だ」ということを、時間を掛けて納得していただく。

 とまあそんな感じなのだけど、それでも受けたダメージの回復が厳しいものもある。

 そのうちの一つとして、私は自律神経を失調している。つなげて読んで自律神経失調症。ええ、そのまんま。
 ストレスにより自律神経失調症になるというのは割に知られていることかと思うけれど、臨戦態勢が続き交感神経優位が続くことで、適切な切り替えができなくなる、というのは想像に難くないと思う。

 この件で個人的に面白いなと思っているのは、「むしろ安全になった時に、症状が出現したり悪化したりする」ところ。
 まあシマウマの例を挙げなくても分かると思うけれども、ライオンに食われそうな非常時に身体の不調を訴えるシマウマはいない。のんきすぎる。安全地帯に来たからこそ、症状が出せる状態になったのだと思う。

 もちろん、私自身、面白いとか言いながら結構困ってはいる。
 あれほど「怒り」をもった生活をしていなければ、こんなに身体を弱めることはなかったのに、と思わないではない。

 けれど。
 生きなくてはならなかった。
 そうでしょう?

 「怒り」の後遺症はきっと存在する。
 それでも、あなたが生き延びること。
 それが、何よりも大切だったのでしょう?

 安全な場所で、傷とゆっくり向き合えばいい。
 それはあなた自身が、あなたを守ってきた証なのだから。
 あなたは、生き延びたのだから。


(今度こそ終わり)

いつもありがとうのかたも、はじめましてのかたも、お読みいただきありがとうございます。 数多の情報の中で、大切な時間を割いて読んでくださったこと、とてもとても嬉しいです。 あなたの今日が良い日でありますように!!