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【小説】 グロウ・アップ

 夜にすっぽり覆われる前、世界はいちだんと明るく照らし出される。最後の思い出を忘れてはいけないと、人の目に、いちだんと眩しく。

 あいつの一家が夜逃げをした、と聞いたのは月曜の夜だった。友人からの電話で、この週末に、あいつと、あいつの家族はこの町を去り、だから今日あいつは学校に来なかったんだ、と彼は僕に語った。僕は、教えてくれてありがとうと言って、受話器を置いた。

 あいつと最後に会ったのは、つい三日前の、金曜日。
 いつもの仲良し五人組で、帰り道、河原に寄り道して遊んでいた。仲間のうちの一人が、向こう岸に見えるホームレスの爺さんめがけて石を投げてみようと言い出して、あいつは、いいね、やろうやろうと言って足元の石を握りしめた。するともう一人が(彼こそが僕に電話を掛けてきた人物なのだが)、やめろ、爺さんが可哀想だと言ってあいつの腕をひっつかんだ。瞬間、あいつは顔色を変えて、石を持っていない方の手でそいつの顔にこぶしを叩き込んだ。まともにこぶしを食らった顔からは鼻血が垂れて、二人は取っ組み合いの喧嘩になった。僕と、残りの二人は、必死になって二人を引っ剥がそうとした。それでもあいつは、むきになって、何度も何度もこぶしを振り上げた。

「あっちの大きな木を狙おう」
 僕はそう説得した。
「誰かに見つかったら怒られるよ」
 別のやつはそう言った。
「本気にすんなよ、冗談に決まってるだろ」
 そう言ったのは、言い出しっぺのやつだろう。
 あいつはただ、顔を真っ赤にして僕たちの制止を振りほどこうとしていた。何も言わなかった。

 それから、抵抗に疲れたあいつは力尽きて、どさっと地面に座り込んだかと思うと、涙をぽろぽろと流し始めた。僕らはしんとして、その周りにただ立ちすくんでいた。元から、あいつはそういう、気性の荒いところはあったけれど、それでも、僕たちの前で涙を見せたのはそのときが初めてだった。

 やがて殴られたやつの鼻血が止まるころ、あいつの涙も止まって、それで僕たちはなんとなく、またいつも通りになって、あいつは、みんなでエロ本探そうぜと元気に叫んで、いちもくさんに橋のたもとへと走っていった。僕たちはバタバタとランドセルの蓋を鳴らして、わあわあと叫びながら、その背中を追いかけた。橋の向こうから強い西日が差して、さざなみを打つ水面がオレンジに、風に吹かれる僕たちの髪がオレンジに、それは永遠とも思われるような、幾度となく繰り返した最後の景色だった。

 あいつがいなくなってから、僕らは四人になって、帰り道も、少しずつ変わっていった。女の子と帰るやつ、学習塾に通うために、寄り道しなくなったやつ。なんとなく、僕らは一緒に帰ることがなくなっていって、いつのまにか、ランドセルを背負うこともなくなった。ただ前だけを向いて、時が僕らを大人にするのに任せて、振り返りもせず、いちもくさんに。

 あの日、僕らは夕陽に照らされていた。


いつもありがとうのかたも、はじめましてのかたも、お読みいただきありがとうございます。 数多の情報の中で、大切な時間を割いて読んでくださったこと、とてもとても嬉しいです。 あなたの今日が良い日でありますように!!