菅原俊〜時代を変えた天才QBの引退

最近プロレス関連の話ばかりだったので、今回は久々にアメリカンフットボールについて。というのもこちらの方のnoteを読んでオービックシーガルズの菅原の引退を知ったからです。

ひでぼーさんがXリーグ時代の菅原選手を書いていたので、私は法政大学時代のことについて書いてみます。

学生時代私は大学新聞の記者として法政大学アメリカンフットボール部(当時はトマホークスでしたね)の取材によく行っていました。年代としては02年〜06年。大学フットボールファンなら「おやっ?」と感じる年代です。90年代にスピードあふれるオプション攻撃を武器に関東を席巻した法政大学の関東の連覇が途絶え、そこからショットガン攻撃を導入して創部初の甲子園ボウル連覇を達成するまでがこの02年〜06年です。そしてこの大転換を果たした中心人物がQBの菅原選手です。

02年に関東の連覇が途絶え、翌03年に再び関東王座に返り咲いた法政大学でしたが、甲子園ボウルでは関西代表の立命館大学に完敗を喫します。菅原選手が法政大学に入学したのはその翌年の04年。この年から法政大学はI体型からのオプションではなくショットガン体型からの攻撃に切り替えを行いました。菅原選手は横浜高校時代にショットガン攻撃を担っており、菅原選手が入学したから(するから)ショットガンを導入したと勘違いされがちですが、本人曰くショットガンをやることを知ったのは入学が決まってかららしいです。

実際04年の春季オープン戦では菅原選手ではなく前年に大怪我を負った市川選手が主軸としてプレーしていました。単純な身体能力を見ても決して菅原選手の印象はあまり残っていません。しかし判断力(特に1stターゲットにパスを投げられないとき)については観客の目を引きつけるものがありました。「特別に強肩でも俊足でもない。サイズも小さい。しかしプレーが崩れても菅原なんとかしてくれる」という正に大器の片鱗はこの頃から垣間見ることができました。

この年の秋季リーグ戦、菅原選手は中盤からスターターとしてプレーする機会が増えました。開幕戦に横浜国立大学にまさかの敗北を喫した法政大学でしたが、中盤以降持ち直し、甲子園ボウルへの切符を獲得しました。04年こそ立命館大学に屈しましたが、以降の功績はもう語る必要がないくらいですね(05.06年の甲子園ボウル連覇)。

菅原選手は法政大学の攻撃を変えた立役者ですが、それは同時に関東学生リーグの守備トレンドへも影響を与えました。それまで関東の大学は法政大学を止めるにはオプション対策(具体的にはFBのダイブをいかにして無効化するか、Gの動きをいかにして封じるかなど、いかにして中央のレーンを潰すか)に守備の力を注いできました。

しかし菅原選手登場以降はこの流れがガラッと変わりました。そうショットガンをいかにして止めるかですね。そしてショットガンを止めるために、この年以降関東でもショットガンを採用するチームが増えました。これは対法政大学、及び当時再興してきた日本大学対策の側面が大きかったと思います。いずれにせよ菅原選手が当時の関東学生リーグに与えた影響はかなり大きかったと言えるでしょう。

法政大学ファンの中では未だにQBに菅原選手の影を追う人もいますが(私も含めて)、それだけ衝撃的な正に時代を変えた天才QBだったと言えるでしょう。

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