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エッセイ「バスに揺られ考える正しさ」

2024年2月20日

 田舎は良い。人でごった返すということがめったにない。都会では当たり前のぎゅうぎゅう詰めの満員電車もない。たまに通勤で利用するバスも、よほどのラッシュ時を避ければ誰かと肩が触れることはない。田舎は良い。とは言えこれじゃバスを走らせれば走らせるほど損なのではないかと心配になるのも当然だ。すでにどこの田舎もバス会社の経営は厳しいと聞く。私の住む町も例外ではない。
 ある時期を境に「運転手のサービスの質が落ちたなあ」と感じる瞬間が増えた。念のため断っておくが、決して批判しているわけではない。これまでが良すぎたのだ。あれだけの技術を持っている人たちがなぜ安月給でこき使われなければならないのか。値上げに抵抗する利用者側に責任がないとは言えないだろう。それならせめて愛想の良い接客サービスを求めることくらいは控えたい。安全に運んでくれさえすればそれで良い。
 とは言ったものの、ごくまれに「それはサービス以前の問題なのでは」と思う運転手に遭遇することもある。高齢者にやたらと威圧的だったり、乗客からの挨拶を無視したり。個人的に「人としてどうなんだろう」と感じるラインを超えてしまうケースが以前より増えたように思うのだ。そしてそういう時、私はいつも自分の中の相反する声にモヤモヤさせられる。
 私はいつでも「正しい」と思う行いをしたい。挨拶が最たる例だ。どんな相手にでも挨拶をすることが「正しい」と考えている。しかし一方で、最低限の礼儀のない人間には相手と同等の礼しか返したくないと思う自分もいる。例えばバスを降りる時、丁寧に私を運んでくれた運転手には耳に付けたイヤホンを外してお礼を言うようにしているが、態度が目に余る時はイヤホンを外さなかったりする。乗客の挨拶を無視する運転手にはお礼を言うことさえ抵抗する。果たして、私のこの行いは「正しい」と言えるのだろうか。人を選んで態度を変えることが「正しい」のだろうか。「礼節をわきまえる」という言葉は、場面や状況に応じて適切な態度をとることらしい。それなら私は礼節をわきまえているとも言えるかもしれないが、やはり「適切な」が引っかかる。これはもはや運転手と私という二者間の問題ではなく、私自身についての問題だ。考えずにはいられない。考えたところで答えはきっと出ないのだが。

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