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エッセイ「節分を考えるINFJ」

2024年2月2日、夕

「明日は節分ですよ〜」と、パートさんが子イワシのおやつをくれた。私も「パートさん」なのでこの呼び方には我ながら疑問を抱くのだが、ここで個人名を出すわけにはいかないし、「同僚」では人生の先輩に対して敬意に欠けるだろう。独身実家暮らしで未だ親の扶養から抜けられない私と違い、パートさんは子育てと仕事を両立するすごい人だ。いつもパワーに溢れ、チャキチャキしている。そんな姿を見て素直に尊敬するし、同時に「常に最大限の力を出さないと1日乗り切れないほどしんどいのではないか」と勝手に心配したりもする。けれど心配したところでどうにもならないし、そもそも本人が選んだ道だから関係ないと思ったりもする。こういう時「やっぱり自分は優しくない」と実感するのだが、自分を他人事のように捉える癖のせいで痛くも痒くもない。内省できているんだか、できていないんだか。「良く分からないなあ」と、これまた他人事のように自分を眺めている。

季節のイベントを楽しめる人は、生きるのが上手い人だと思う。それも家族だけではなく、学校や職場など他人も巻き込んで特別感を演出してくれる人は貴重だ。クリスマスにプチギフトを用意したり、バレンタインデーにチョコをくれたり。義務感から来る行動ではなく、純粋にちょっとしたことを楽しもうとする姿を見ると、私のガチガチな心が少し解けるのが分かる。本当は私もそういう存在になりたいのかもしれない。なりたいならなれば良いというだけの話だが、なぜすんなりいかないのだろう。もちろん答えは「考えすぎるから」だ。「キリスト教徒でもないのにクリスマスを祝うなんて云々」「チョコレート業界の思惑に踊らされるなんて云々」、単純に面白そうと思うだけでは気が済まないせいだろう。節分に至っては人に豆を投げるという行為に躊躇してしまうし、それがたとえ人ではなく鬼であったとしても、どうして豆を投げつけて良いんだと訴える自分がとてもしつこい。仮に豆を投げ儀式を終えたとしても、散らばったものを拾い集めながら「私は何をやっているんだろう。汚して、片付けて、何の意味がある」と思わずにはいられないだろう。だからこそ、外から楽しさをお裾分けしてくれるパートさんのような人の存在がありがたい。自分でも壊せない頑固さをほんの少し打ち破られる感覚。もちろん「ほんの少し」がポイントだが。

週が明けたらパートさんに節分をどう過ごしたか聞いてみよう。実はそれが私なりのお礼の形だったりするのだが、きっと気付かれはしない。気付かれないのがむしろちょうど良い。

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