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エッセイ「見えないモノを見落として」

2024年3月5日、午前

 私の子供時代に流行った歌がある。――見えないモノを見ようとして望遠鏡を覗き込んだ――当時、私の耳は「見えないモノを見落として」と音を拾い、しばらく後に「見ようとしたのか」と気付いたのだが、大した話ではないので自分だけの記憶にしまっておいた。あれから数十年……(調べて驚いたが発売からもう20年以上経つらしい。)当たり前を見落としがちな自身についてあれこれと考えを巡らせるうちに、ふとこの記憶が蘇ってきたので頭の中を書いてみる。

 いきなりだが、小麦粉は小麦からできている。突然何の話だと思わせるかもしれないが、私はこの事実に納得するまでに17年もの歳月が必要だった。理由を説明するには、まず前提から話さなければならないだろう。
 私は何か物事と接する時、「理解する」「知識として貯める」「納得する」の三層に分けて受け入れている(ようだ)。一つ目の「理解する」これはその言葉の通りで物事を理解することである。こればかりは小泉構文を使うしか説明のしようがない。正直、「理解する」層にはほとんど何もいない。よっぽど得意な分野、推しのこと等々、オタク的な語りができる層がここに該当する。
 二つ目の「知識として貯める」これは「理解する」層には入れることができない、理解が及ばないと感じたことをとりあえず「そういうものらしい」と暗記して放り込む層だ。義務教育で学んだ内容はほとんどここにぶち込まれている。最も乱雑で情報量も他の二層と比べて桁違いに多い。「1+1は2らしい」「地球は回っているらしい」「小麦粉は小麦からできているらしい」等々、例をあげるとキリがない。「知識として貯める」層にある情報は理解していないため応用が効かないのが特徴で、私の弱点でもある。
 三つ目の「納得する」――これが私にとって最も重要な層だ。物事が自分の哲学の一部に溶け込んだような感覚、物事を全身で受け入れた感覚を覚えた時、その事実は「納得する」層に入る。「知識として貯める」層にある情報が何かのきっかけで「納得する」層に移動する瞬間を私は「ひらめき」として認識する。
 例えば、しつこいようだが小麦粉は小麦からできている。この事実がまだ「知識として貯める」層にいたとしよう。すると私は「小麦粉は何からできている?」という質問には「小麦」と答えることができるが、「小麦粉って何?」と聞かれた途端、分からなくなってしまう。おそらく「からできている」の部分に納得していないからだ。
 じゃあどうすれば「納得する」層へ移せるのかというと、小麦が小麦粉になるまでの過程を(壮大に)想像する必要がある。――人々はある日、小麦を育てることにした。畑を耕し、小麦を植える。途中、日照りや豪雨に振り回されながらも一生懸命育てて、とうとう収穫する。穂の部分をなんやかんやして粉末状にまで小さくする(ここはなんやかんやで良い)。――はい、確かに小麦粉は小麦からできているのだ。
 こうして納得した今なら「小麦粉って何?」と聞かれても怖くない。「小麦を粉にしたもの」と堂々と答えることができる。「知識として貯める」層にいた頃なら「うーん、よく分からないけどコムギコっていう植物があるのかな」と答えたかもしれない。なんとまあ恐ろしい話だろうか。

 冒頭に戻るが、「見えないモノを見落として」というフレーズはまさに私のことを表している気がしてならない。見えない部分を見えないままでも受け入れなければならないせいで、謎理論で結論を出してしまうことも多い。「コムギコ」を収穫する方が合理的だし、夜空は季節ごとにカーテンの衣替えをしているのだと思いたい。もし2500年くらい前に生まれていたら、私の主張も自然哲学の一つになれたのだろうか。「見えないモノ」の多くが人々にとって「当たり前」になってしまった今、私はただの阿呆のようである。

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