「変わったね」には棘がある

先日、小学校からの友人から「お母さんに変わったねといわれてショックだった」という話を聞いた。「変わったね」には当然、「成長したね」というようなポジティブな意味合いもあるけれど、この友人はおそらく母親からの言葉に「変わっちゃったね」というニュアンスを感じ取ったのだと思う。だからショックを受けたのだ。
大学生になり、子どもから大人への過渡期とも呼べる時間を過ごす中で、私自身「変わるのは寂しい」と思うことがよくある。私の場合は、子どものままでいたいわけではなくて、早く大人になりたいという思いも確かにあるのだけれど、それでもなお、自分の感性が変わり、環境が変わり、子どものころにもっていたものを失っていくことが寂しいのだ。
例えば、小さいころ、私は母が読み聞かせてくれる絵本が大好きだった。同じ絵本を何回読んでも飽きなくて、一冊の絵本に映画一本分の物語がつまっているように感じた。絵を描いたり、工作をするのも好きだった。毎週通っていた造形教室では、好きな材料を使って、好きなだけ時間をかけて、自由につくりたいものをつくり、描きたいものを描いた。それが心から楽しかった。
だから今もそのままの私だと思っていた。久しぶりに絵本を開いても昔と同じように絵本は面白いままだろう、何か自由に創作する時間があればあのころのようにワクワクするだろう。そう思い、何回か実際にやってみた。
つまらないわけではない。懐かしい気持ちがある分、好きだった絵本は楽しく読める。でもなんだかあっけなく読み終わった。あれ、こんなに短かったけ?こんなもんだっけ?と思う。映画のようなストーリーはそこにはない。時間をつくって、目的なく絵も描いた。普通には楽しい。でもどこかで時間を気にしていて、ほかにやった方がいいことがある気がして、気晴らしに絵を描くことすら一つのタスクをこなすみたいにやってしまう。そういうとき、ああ、変わったんだなと自覚する。
変わることは悪いことじゃない。でもときどき、寂しいことではある。たとえそれが前向きな変化であっても、変わることは少なからず寂しい。寂しいから、「変わりたくない」という思いをもっていて、人に「変わった」と思われたくなくて、だけど変わっていかなくちゃいけなくて。
それなら、ときには変わった自分に気づかないふりをしながら、変わらない自分を演じたりしながら、変わることも変わらないこともどっちも都合よく肯定して、生きていけたらいいなあ。
ただそのために人を傷つけることだけはしないようにしよう。目の前にいる相手に限らず、全盛期を過ぎたり方向転換をした有名人やグループに対して「あの頃が好きだった」「変わっちゃったね」っていうファンは多いけど、それはちょっとずるい。だってみんな変わってるんだから。変わった時代、変わった世間、変わった自分、そういうのを全部ないことにして、まるで相手だけが変わってしまったみたいに「変わったね」と棘を刺す。好きなものや人に「変わってほしくない」と思う気持ちはすごくわかるけど、その言葉が相手を傷つけることをわかっていて、むしろ傷つけるために、わざわざ伝えることをしない優しさは忘れずにいたい、と思う。


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