私は跡になりたい
“跡”は残りカスで生きる糧だ。
この前、そんな風に思った。
「あと」と読むと、足跡、傷跡、城跡、焼け跡、雨跡…
「せき」と読むと、遺跡、形跡、痕跡、筆跡、軌跡…
跡は、実体のなくなった抜け殻だったり、昔の思い出だったり、残りカスみたいなものだと理解している。
生きる糧と言うわりに、残りカス呼ばわりかと、自分でも思う。
ちゃんと、訳がある。
先日、地元の城跡を見に行った。
緑地の広がる公園の一角に城跡があるんだが、「跡」というだけあって、がらーんとしていた。
そこにあったものと言えば、ぽつんと、城跡を示す石、平和を願うオブジェ、戦没者慰霊碑。
実は、私の地元で大きな空襲があった日と、私の誕生日がたまたま同じで、一度、慰霊碑に手を合わせたい思って、行っていた。
なーんにも無い城跡で、手を合わせた。
色んな人のことを想像して、勝手に辛くなった。
大空襲で亡くなった人のこと、戦地で戦った人のこと、戦争で家族を失った人のこと。
城跡の蝉時雨の中をとぼとぼ歩きながら、辛さの行き所を探して、自分が手を合わせたことに意味があったと思おうとする。
跡ってそういうところなんだろう。
そこには、何もなくて、でも、だから生きた自分の思いを乗せられる。
人は、好きな歌手のCDやDVDを持っていても、夏フェスへ行き、ライブに熱狂する。
CDやDVDには実体があるが、ーあるからこそーなかなか跡には残らない。
憧れの、生身の人間が舞台に立ち歌う姿、情景、感動は、心に跡を刻んでくれる。
実体がなくなっても、その跡は、感動を今に思い起こさせ、ときには今の自分に勇気をくれる。
跡は、今の思いを勝手に自由に乗せてくれる。跡は、そんな自由の許された心地の良い場所なのかもしれない。
顔や胸、あるいは背中に傷跡のあるアニメ・漫画のキャラクターは容易に思い浮かぶだろう。
それぞれの傷跡は、現在のキャラクターの復讐心、尊敬の念、誇りなどと語られることが多い気がする。
跡は、残りカスだからいいんだ。
残りカスは今を生きる糧になる。
そして、私は誰かに跡を残したい。
このnoteだって、あなたの跡になれるのかもしれない。
残りカスになって、誰かの今を生きる糧になれるのなら、それは私の生きる糧になるだろう。
私は、跡が欲しいし、跡になりたい。