見出し画像

26歳までジャニーズとは何かを知らなかった私がジャニオタになるまでとその理由

表題の通り、私は26歳と2ヵ月(およそ)になるまで、ジャニーズという名前は聞いたことがあったものの、根本的に彼らが何をするひとなのかも、誰が”ジャニーズ”なのかも知らなかった。

”私とジャニーズ”という題の本を書くとするならば、第一章はおそらく”嵐と私”になるだろう。私は1993年、寒い寒い夏生まれの地方都市出身だ。嵐がデビューした1999年、私は6歳で微妙に物心もついていたわけなのだが、姉と兄からの質問は今でもはっきり覚えている。「嵐の中で、誰が好き?」

6つ上の姉と4つ上の兄は、興味津々といった面持ちで、デビューシングル”A・RA・SHI"のジャケット私に見せた。当然私は、誰これ、おいしいの?状態で10代後半くらいの男の子たちの顔面だけを注視して「この人」と指さしたのが、大野君だった。

ちなみに私が初めて購入したCDはT.M.RevolutionのHOT LIMITであることから、察しのいい読者の方々は私が半裸状態の人間に免疫があり、むしろ好物であることがお分かりいただけるだろう。

さて、そんな”A・RA・SHI"からややあって、私は小学校高学年になっていた。2005年、世が”赤西・亀梨ブーム”の時、私は漫画と外遊びに夢中の野生児だった。クラスのおませさんな女の子たちが、「赤西派?亀梨派?」とクラス中の女子に聞きまわってる際も、何のことかもわからなかったが、彼女たちの熱量に圧倒されたのを覚えている。(今ならいえる、亀梨派です)私はそこで初めて、ジャニーズというものがうちのクラスの女の子たちを騒がせているという事実に気づき、なるほど、ジャニーズねぇなんて思っていたわけである。しかしながら、ファンではないあの頃でもKAT-TUNの曲は知っていたし歌えた。何なら、”Signal"の替え歌を兄弟たちと作っていたレベルだ。(余談だが、私たち兄弟は母親の出身地である農村地帯に行くとき、いつも祖父や叔父のことを農村のKAT-TUNと言い、What's going on~トラクタ~などと歌って道中楽しんでいた)

その後も、Hey!Say!JUMPがデビューしたときも、「へ~同い年の子がいるのか~」とか「この小さい子(知念君)は声が高いなあ~」などとぼんやり思いながら少女時代を過ごしていた。赤西が結婚した時も、NEWSの内君が未成年飲酒で騒ぎになった時も、クラスメイトの悲鳴やらなんやらを「へ~」という魔法の言葉で無視していたように思う。

さて、私の周りにいた友達はどうだったかというと、私は学生時代から何かとジャニオタの方と交流はあったと思う。にもかかわらず26歳までジャニーズの知識がゼロだったことに、自身の他人への無関心度具合がうかがえて猛省しているのだが。しかしながら、記憶としては割とビビットに残っている。高校のときの前の席のNちゃんは錦戸君が大好きで文化祭で黄色いツナギを着ていたし、大学の時の学籍番号が隣だったAは手越のすべてを愛している心の広い女性だった。(今も好きかなぁ)彼女たちは周囲の人間にジャニオタであることを公開していたが、私のようなジャニーズに無関心の友達に強制的に”ジャニーズとはなんたるか”の講釈を垂れるような人間ではなかった。そこがまた素晴らしかった。私も彼女たちを見習いたい。

社会人になって一番仲が良くなった同期の子もまた、ジャニオタである。彼女は青春時代をジャニーズとともに過ごしたプロフェッショナルなジャニオタである。彼女と比べると私なんてセミプロまでもいかない。彼女は私に、キンプリの平野君がいかに将来有望であるかを教えてくれた。(入社当時キンプリは未デビュー)そのころからだったと思う、私が徐々にジャニーズは歌って踊るアイドル集団だということを認識し始めたのは。

それからややあって、新卒で入った会社を辞め、海外の大学院で学生生活に戻った。そして、そこで開花するのである。

海外生活の中で、疲れた時に何を求めるかというと、私の場合は日本のエンターテイメントだった。恥ずかしながら私は学生時代も社会人時代もバラエティ番組をそこまで見たことがなかった。(うちの母親がバラエティ番組に冷ややかな目線を送っていたのが原因)しかし、なぜだかふと年末に姉が言っていた「タッキー&翼の最後のカウントダウンコンサートが泣けた」という一言を思い出し、YouTubeで視聴、そしてタッキーも翼も全然知らないのに泣いた。恐るべき魔力だ、そして私は翼君がタイプの顔だということにもそこで気づいた。

そこから私はジャニーズの魔力に引き込まれていく。あれよあれよと昔”学校へ行こう”を見ていたよしみからか、姉が昔森田剛君が好きだったよしみからかV6の動画なんかを見始めた。するとどんどん加速して、Hey!Say!JUMPの”いただきハイジャンプ”を視聴し、ホモソーシャルな世界の可愛さ(男子がわちゃわちゃして可愛い)を堪能し始め、ついに出会ってしまったのである、Sexy Zoneに…

きっかけはSexy Zoneの冠番組、”Sexy Zone Channel"である、そう、あの伝説の番組だ。ちなみに私は学生時代一軍男子とは一切関わってきていない生粋の5軍女子というか戦力外だった。しかしそんな5軍女子でも、嫌な感じがせずに一軍男子である彼らをかわいいと思ってみることができた。(5軍女子の大半は男子から心無い一言で傷ついている子が多い)それもそのはず、Sexy Zoneのメンバーは本当にいい子、本当の本物の育ちのいい男の子たちなのである。育ちのいい一軍男子は決して女子を貶めるような発言はしない。私はそんな、セクゾちゃんの品行方正なところと5人でいるときのケミストリーに惹かれたのだ。故に、私はセクゾに関しては箱推しである。(思想の面で合うのはマリウス、私と全く違っていて惹かれるのは風磨、面白さではケンティー、等身大の男子として愛でているのが勝利と聡ちゃんといった具合)

セクゾとほぼ並行して知っていった全く毛色の違ったグループにSixTONESがある。彼らの素晴らしいところは、1人1人がもうすでにタレントや俳優として活躍できるほど成熟しているところだと思う。見ていてこちらとしても安心感がある。ちなみに私は北斗推しなのだが、その魅力はまた今度。

そうやってジャニーズのグループを知っていくうちに、私はなるほど、これがジャニイズムか、これがアイドルかということに気付かされた。そしてなぜ、ジャニーズが1960年代から人々に影響を与え続けているかを理解した。そしてその理由は、私が思っていたよりも深く社会背景に密接に関わっていた。

これには、90年代初頭までのジャニーズアイドルとそれ以降のジャニーズに分かれているように思う。(異論はあると思うが)

フォーリーブスやマッチやトシちゃん、シブがき隊、少年隊、光GENJI、忍者あたりまではアイドルは神話のような世界観で構成されていて(忍者に関しては神話ではなく演歌のような職人のような印象だが)、まさしく憧れの対象でありファンタジーだった。

しかしSMAP以降のジャニーズアイドルはメジャーな歌番組の終了に伴うバラエティ番組への進出等々で、アイドル”自身”、タレントとしての個性を見る機会が多くなった。(多分こういう論は私以外にも書いている人がいると思うのであまり長く書かないでおく)

この背景として、バブル崩壊や経済不況、震災などといった日本社会の不安定のなかで”一緒に頑張ろう”というジャニーズアイドルと視聴者の共鳴があったと思う。現在のコロナ渦においても、この”支えあい”理論は当てはまる。日本看護協会への5億円の寄付も、スマイルアッププロジェクトも元をたどれば阪神淡路大震災後のJ-FRIENDSに遡ることができるだろう。(ちなみに私の母は看護師だが、今回の寄付のことは全く知らなかったので、職場の人にも広めるように言っておいた)

さて、同じ”しんわ”でもファンタジーや神話性のあるジャニーズアイドルから、”一緒に頑張る”、親和性のあるジャニーズアイドルとでは、アイドルの意味合いが変わってくるのも当然だ。私は少年隊も大好きなのだが、少年隊のパフォーマンスを見るときの気持ちとセクゾを見るときとではやはり違う。違うけれど、それでいいのだ。その幅の広さ=神話性/親和性あるからこそ、私は新旧ジャニーズアイドルのどちらも好きだし、むしろその歴史にキュンとする場面もある。少年隊の”まいったネ今夜”をSnow Manが歌う世界線なんて、素晴らしいじゃないか。セクゾには”Baby Baby Baby"とか”ロマンチックタイム”(いずれも少年隊の曲)とか合いそうだ。


長くなってしまったが、表題の通り私は26歳になるまでジャニーズとは何たるかを知らなかった。そして知った今、なぜ好きになったのかが理解できる。その原因はやはり”一緒に頑張る”パートナー的な存在だからだ。推しがいる幸せをかみしめながら、今日も私は机に向かう。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?