答えは出ないがついつい考えちゃうこと
「生きる意味ってなんだろう。」
最近、仲の良い友人からこんな問いを受けました。
その時には自分の中で答えが定まってなくて、ずいぶんとあやふやなことを答えてしまったような。
それがなんだか悔しくて、生きる意味について自分の考えていることを言語化してみようと決心し、今パソコンをカタカタ鳴らしています。
この問い、皆さんも一度は考えたことがあるのではないでしょうか。もういちど、一緒に考えてみませんか?
※先に謝っておきたいのですが、この記事では結論はあやふやなままです。私に思考力と体力と糖分が足りませんでした。すいません。みなさんがこの問いを考える時に、この記事がちょっとでもお手伝いできてたら嬉しいです。
よければお付き合いください。
生きるってどんな状態?
そもそも、生きるっていつ、何を指しているのでしょうか。
人間、私も含めて、生きることしかしたことがない。
ここで死んだことがある人がいたら静かに手を挙げてください。いや、やっぱり怖いからそのまま黙っててください。
生きている状態と生きていない状態を自分の中で明確に区別することはできないのだから、そもそも「生きる」ことがよくわからなくなる。
息をしていれば「生きる」なのか?
思考を巡らせていれば「生きる」なのか?
感情が動けば「生きる」なのか?
自分以外の存在を感じ取れれば「生きる」なのか?
うーん、なんだかどれもしっくりこない。生きると死ぬの境界はどこなんだろう。
某アニメの有名なセリフ、「お前はもう死んでいる。」と言われたあの人は、本当に死んでいたのかな? あの瞬間は自力で立っていたけど。
…だめだ。上手いことを言いたいのにパソコンを打つ手が止まった。
もうすでに生まれて生きてしまっている以上、死んだことがないからわからない。無念。完敗。
生きる意味? 死ぬ意味?
じゃあ生きる意味がわからないなら、死ぬ意味はあるのだろうか。
死ぬ意味を考えるために、ここでひとつの出来事を紹介させてください。
*
あるよく晴れた日、旅行先の駅にて。
ホームに着くと、スーツを着たサラリーマンやおしゃれをした女の子、自分と同じような、リュックを背負った旅行客など、たくさんの人が次に来る電車を待っていた。
すると、スピーカーから電子アナウンスが響く。
「現在、○○区間で人身事故が発生したため、○○線は運転を見合わせております。」
電子掲示板に流れるのは、「約40分程度のおくれ」という文字。
ホームには、スーツのサラリーマン、おしゃれな女の子、リュックを背負った旅行客。さっきとおなじ。
いつもの日々。日常のまま。
「人身事故」と聞くと、単なる四文字熟語で何の感情も動かない。
その四文字の裏には、想像を絶するほどの痛みも、苦しみも、つらさも、あったはずであるのに、私たちは無意識にその現実を四文字で上書きしている。
ホームにいる人の顔を見ると、イラついている様子の人がちらほらいて驚く。
今から大切な人に会いに行こうとしているのかもしれないし、どうしても間に合わせなきゃいけない仕事があるのかもしれない。
たしかに、そんな状況で40分も遅れたら、その人の予定は狂い始めるだろうし、誰かに迷惑をかけることに怯えている人もいるんだろう。
でも…。やっぱりだめだ。イラついている人のことをどうしたって肯定できない。自分の想像力を総動員させても、嫌いという感情に勝てない。
人の死に無関心な人がこんなにいるなんて。彼らの日常の中には死が平気で紛れ込んでいるのだろうか。
世間がたまらなく怖くなった。
**
人の死は、たった40分しか電車を遅らせられない。
社会の時計の長針を、たった40分しか止められない。
ホームにいる人たち全員が、その人に同情して涙を流したり、
その人に苦しみを与えた人に殴り込みに行くなんてことは、絶対に起こらない。
電子化された無機質な文字に変わるだけ。
ああ、死とは役に立たない。思っていたより無意味なものだ。
***
実はずっと、心にモヤモヤとして残っていた出来事で、今回どうしても言語化しておきたかった。読んでかなしい気持ちにさせてしまっていたらごめんなさい。
いったん問いに戻ります。
死が無意味なものだとしたら、生きることを選択することに正統性はあるのかもしれません。
でも、あくまで消去法で選んだというだけ。なんかむなしいな。
自分なりの生きる意味を探せとか、夢を持て、目標を持てって、世間には松岡修造が溢れているけれど、その松岡修造は生きる意味を持っているのでしょうか?(本人とは無関係です)
ここまで考えても結局答えはでないから、今日のところはこれでおひらきにしたいのだけれど、この問いにはこれからもずっと悩んでいく気がするし、答えは一生出ない気がする。
でも今日言いたいのは、生きる意味と死ぬ意味について悩めている私は、すごく恵まれているということ。悩むことに時間や労力を割ける時点で、私はしあわせ者であることを、きっと忘れちゃいけない。
それと、今、生か死かを選択しようとしている人がいるのだとしたら、死に対して期待しすぎないほうがいいのかもしれない。これはむしろ悲しいし、つらいことだというのはわかっているけれど。私たちが思っているよりも、死はかき消されてしまうものらしいのです。
だからといって生きることを強要するわけじゃないけれど、私はもう少し悩んでいたいので、いまはとりあえず生を選択したいと思ってます。
もし自分で生か死かをコントロールできるのなら、私だったらもうちょっと生きる時間を延ばして、おいしいご飯をたくさん食べたい。綺麗な景色を見に行きたい。好きな作家さんの小説を読破したい。ってことは、その作家さんが引退されるまでは生きていなければ。生きる時間、もう少し延ばすことになりそうです。
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結局、結論は出ないままで申し訳ないですが、ついに私の頭はキャパオーバーしました。チョコが食べたい。
問いをくれた友人にも感謝を伝えたいです。いつもは頭の中で渦巻いていたぐるぐるが外に表出されて、なんだかすっきりしました。ありがとう。
生きる意味を見つけようが見つけまいが、これからも一緒に考えこませてください。
おばあちゃんになったら家の縁側であたたかい緑茶でもすすりながら、ああでもないこうでもないって言って盛り上がろう。その時は生身の人間じゃなくてアバターになってるかもしれないけれど。だいぶハイテクなおばあちゃんだな。思考力と体力、今のうちから鍛えておきます。それと甘いものもストックしときます。
なんだか恋文みたいな終わり方ですが、今回はこのくらいにしときます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
こんな記事もたまにはありかなと思って、これから投稿ボタンを押してみます。
ではまた。
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