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『全自慰文掲載 又は、個人情報の向こう側 又は、故意ではなく本当に失敗し、この世の全ての人間から失望されるために作られた唯一の小説』その7

            Ⅲ-3 オナニズム論③
 
最後に、『心理性発達理論』を、大まかに紹介しておこう。
①「口唇期」・・・これは、赤ん坊が母のおっぱいを吸って得られる「性的快楽」の時期のことだ。
弟子筋のラカンさんは、この体験を『享楽』と呼んだ。
しかし、離乳の瞬間が、訪れる。
そのために、「泣く」という「言語活動」が生じる。
かつ、「おっぱいを吸っていたい」という欲求それ自体と、「おっぱいを吸わせて下さい」という意味での「泣く」≒「言語活動」との間にも、差がある。男性にとって、「泣く」という「言語化」の必要性は、母(女性)からの「性的快楽」を得るためのご機嫌伺いの始まり、と言っても過言ではない。
覚えるべき肝心なことは、このくらいでいい、と思われる。
②「肛門期」・・・これは、排便における「我慢と排泄」という自己コントロールにより得られる「性的快楽」の時期のことだ。
上手く「我慢と排泄」が出来たら、母(女性)から褒められる。上手く「我慢と排泄」が出来なければ、母(女性)から叱咤(存在を否定)される。
完全に、母(女性)へのご機嫌伺いが、始まっている時期である。
③「男根期」・・・これは「母親を自分のものにしたいがゆえに父親を殺したい、しかし、父親に敵わないので父親に妥協せざるを得ない」という、俗にいう、「エディプス・コンプレックス」の時期だ、とされている。
だが、父親を殺して母親を我が物にしたい、という説明は、急過ぎる。
かつ、そんな突拍子もない説明が前面に出してしまうと、なぜ男根という部位が用語として使われているのかが上手く説明出来ていないことになってしまうだろう。
「男根」(ペニス)に「性的快感」がある、という部位的な側面から言えば、自分の男根から出る小便を上手くコントロールする「性的快感」、即ち、②の「肛門期」の続編という位置づけである、とひとまず言ってよい、と思われる。
その上で、上記の「エディプス・コンプレックス」を、理解すればよいのでは、と思われる。
説いて曰く、「ちゃんと、トイレで出来て偉いねぇ」と、母(女性)に褒められ、認められることで、母(女性)に「自分が父親よりふさわしい男だって認めてよ」とアピールしたがる、というわけだ。
④「潜在期」・・・この時期になると、男性の「性的快楽」は、一端、文字通り潜むことになり、興味が「性的快楽」より、他のモノ・世界に向く、という。
私個人は、全く違う、と思っている。
最も多くの誤解を生んでいるのが、この④の「潜在期」である。
「潜在期」にも「性的快楽」はあるし、「性欲」がある。
それは、社会(小学校)から、「かけっこ、早いね」とか、「漫画、上手いね」とか、「話、面白いね」などと、褒められること、つまり、「『承認欲求』を満たされることで得られる性的快楽」である。
三大欲求の中でも、「食欲」や「睡眠欲」と違い、「性欲」は、形ばかりに過ぎなくても、「他者」が必要な唯一の欲求である、という点からも、この「承認欲求」を「性欲」に分類するのは、妥当であると考える。
そして、この「承認欲求」という「性欲」の根底には、「寂しさ」がある。
「寂しさ」全般に関する欲求が、この「潜在期」の「性欲」に属する、と思われる。
「寂しさ」。
想像して欲しい。もし、この世の全ての漫画から、「顔」の描写を無くしてみたらどうなるだろうか。どれだけ話が面白くても、どれだけ背景が書き込まれても、誰もその漫画を読まなくなるだろう。
あるいは、自分のipodのプレイリストを、人の声が一切入っていない、インストゥルメンタルだけで構成してみるといい。インストゥルメンタルだけを聞き続けてみると、きっと、その果てに、「人の声」が恋しくなってくるはずだ。
「分かり合いたい」という全ての態度・表現は、「寂しさ」が根底にある表現、と集約してよい。
よって、迷惑系YouTuberに代表されるような、「人の心がない」と指摘されがちな、ひねくれた形態でのコミュニケーションの表現も、実はこの「寂しさ」≒「分かり合いたい」が根底にあるし、ラップバトルに集約されるような、他人に対する冷徹なディス的な態度も、「お互い、傷だらけになって、初めて、深く分かり合えるんだ」という「寂しさ」≒「分かり合いたい」が根底にあるのである。
無論、この「寂しさ」が完全に埋まることはない。完全に埋まることがあれば、とっくのとうに、この世からストーカー殺人やテロリズムが、無くなっているはずである。
ともかく、この「潜在期」に追加されるべき事柄は、私個人ではカバーし切れないぐらい広い。
スマホ、LINE、ネット、SNS、リモートなどに時代性によって、この「潜在期」を大幅に先取りしている子も相当に多いだろうから。
何よりも問題なのは、この「潜在期」が「他者とのコミュニケーション」における「承認欲求」という「性欲」の時期、だとすると、安部公房さんも生前仰っていたことだが、
「そもそも人間の最も苦手分野は、人間との関係である」
という、この、どうしようもない一点に尽きるだろう。
「他者とのコミュニケーションの一環としてセックスがある」とすると、そもそも、「コミュニケーションの取り方がよく分からないまま育つ日本人」にとって、セックス自体が得意であるはずがないのである。
「少子化対策」の根底には、こんな、素朴な問題がある気がしてならない。
そもそも私たちは一度もちゃんとした形で「他者との接し方」や「人の愛し方」を学んだことがないのである。
⑤性器期・・・これが、自身の「性器」に「性的快楽」が集中している時期のことである。この時期が、フロイトさんの『心理性発達理論』の「最終段階」となっているわけだが、言い換えれば、「その後、どういう段階を経るのかは、分かりません」と宣言しているようなものなのである。
そして、当然この「性器期」にこそ、私が語りたい「男性性」の本当の正体と、「男性的オナニズム」「他者を徹底的に排除した非コミュニケーション的な時空間で、非実利的な構築性そのもの対して凝り性である思考や志向全般のこと」の本当の正体がある。
さて、この地点から、様々な補足を加えて、おさらいしてみたい。
まず、①の口唇期の時点で、「男性性」というもの正体の一端が、決定されていることが分かる。
ラカンさん曰く、この時期、赤ん坊は、自分では、何もできない。
放っておいたら、死ぬばかりだ。
ゆえに、『享楽』(離乳以前の授乳という究極の快楽)がどうこう以前に、その赤ん坊が生きるか/死ぬかの権限は、全て母親的存在(実際の母親であるか、は問題ではない)に握られている状態だ、と言うのである。
そして、その延長として、『享楽』(離乳以前の授乳という究極の快楽)がある。その『享楽』(離乳以前の授乳という究極の快楽)を得られるかどうかも、全てその母親的存在に権限を握られている。
ゆえに、男性にとって、自分の『享楽』としての「生」(絶頂)も「死」(中断)も、全て女性側(母親的存在)にその権限を握られている、という話になってくる。
ゆえに、②の「肛門期」でも、③の「男根期」でも、男性は、女性(母親)に「ご機嫌取りをする」のである。
その「ご機嫌取り」の中で、男性が最も恐ろしいのが、「中断」である。
ラカンさんが唱えた「中断」の概念は、とても大事な概念である、と思っている。
精神分析家としてのラカンさんのいう「中断」というのは、会話中、言いたいことをしゃべっている最中、それを一端、「中断」されたときにこそ、その人の無意識の内に隠している欲動が現れる、という意味である。
日常会話でも、よくあることだ、と思われる。
例えば、映画を見終わった後、サイゼリアで、友人二人が話し合っていた、としよう。
A「いやぁ、今回のゴジラ映画はさ、言うなれば、演歌なんだよね」
B「え? どういうこと?」
Aが「というのもね――」と、喋り出そうとした時、店員が、なにかしらの料理や飲み物を持ってきてた、とする。
AもBも、店員さんに「ありがとうございます」と言う。
この時Aは、店員さんに「中断」されて、話を遮られたことをきっかけに、「今回のゴジラ映画はさ、言うなれば、演歌なんだよね」の「根拠」を語りたくて仕方がないし、それをすぐさま話せないことに、内心苛々している。
自分の欲望を、途中で、遮られる、不快感。
これが広義の「中断」という概念である。
その後の「性体験」においても基本は、キスさせてくれるのか、胸を揉んでいいのか、手コキをしてもらえるのか、フェラチオをしてもらえるのか、中出しさせてくれるのか、その全てに対しての「中断」の権利は、女性側にある。
「性器期」以降、男性性がどうなるのか、という方程式はないし、答えもないし、時代によって可変的なものである。
ただ、答えがない、ということは、老化という身体上の変化と共に、「口唇期」、「肛門期」、「男根期」、「潜在期」の名残りたちを、「性器期」的な領域でごちゃまぜにし、こじらせ続けたまま生きていく、ということが、言えるのではないか。
そうでなければ、この世の中に、おじさんのための風俗店やav作品が存在するわけがない。

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