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『全自慰文掲載 又は、個人情報の向こう側 又は、故意ではなく本当に失敗し、この世の全ての人間から失望されるために作られた唯一の小説』その6

           Ⅲ-2 オナニズム論②
 
私はひとまず、「オナニズム」(自己完結的な自分の世界での充足が人生の目的になっていること)の定義を、「人類的なオナニズム」と、「男性的オナニズム」という二つに分類しようと思っている。
前者の「人類的オナニズム」とは、全年齢・性別問わず、全ての人類の活動の底に潜む『「幼児的な欲求」の充足』のことである。
「幼児的な欲求」の定義は、「他者を排除した、自分の生理上・感覚上、最も快適な時空間で、何度も同じことを繰り返すことの快楽」である。
かつ、その『「幼児的な欲求」の充足』に属する欲求が生きていくための最終的な「目的」地点になっている状態も、この「人類的オナニズム」の定義に入れよう、と思っている。
幼児は、ウルトラマンの人形を、怪獣の体に、何度も、げし、げし、と言いながら、殴る、という反復行為を繰り返し、げらげらと笑う。
砂場に、丸描いて、ちょん。また、砂場に、丸描いて、ちょん。この絵ばかり、幼児は、繰り返し、描く。
ぷちぷちを潰していく、という、単調でありながら、反復の快感。
壁に向かって、テニスのラリーを繰り返す快感。
RPGゲームにおいて、ほぼオート戦闘状態でレベルアップを繰り返す、という単純作業の心地よさ(完全に余談だが、よく昨今のRPGゲームのレビューにおいて、脳筋状態でレベルアップしていくだけなどと、その繰り返しの単調さが酷評されたり、「作業ゲー」などと揶揄されるが、私はむしろ、その「作業感」の差異と反復にこそ、生理的・感覚的な快楽がある、と思っている)
思春期の頃聞いたdragon ashの音楽に、ミニマム・ミュージック(最小単位の構造的反復)の要素がなかったら、あれほど、彼らは大衆に受けなかっただろう。
そして、いわゆる「性器期」以降のある種の男性は、家に帰って自慰にふけるためだけに、その日その日のつまらない授業を受けたり、部活をこなしている(逆に言うと、大体、「アダルト」という名が冠せられた「大人の世界」とは、ただの「幼児的な欲求」に基づいている。そういう意味で「恥ずかしい世界」だから、大人は未成年に「まだ、君には、早いよ」などと言い訳をしているだけである)。
ある種の人は、学校帰りの、冷蔵庫で冷えたプリンを食べるためだけに、生きているだろう。
ある種の人は、仕事休みの、一服のためだけに、生きているだろう。
ある種の人は、仕事終わりの一杯のためだけに、生きているだろう。
ある種の人は、快適なエアコン設定のまま、一番好きなポテチとジュースを片手に、漫画を読む瞬間のためだけに、生きているだろう。
ある種の人は、仕事終わりにボクシングジムに行き、何回も何回も、パンチバックに、パンチをぶつけて、すっきりするためだけに、その日を生きているだろう。
あるいは、ある種の映画評論家は、それが仕事であっても/なくても、生涯、映画のレビューを繰り返す癖を、止められないだろう。
ある種の人は、負ける/負けないに関わらず、毎日、スロットを打つ、という反復を、止められないだろう。
ある種の人は、「喋る」という反復を禁じられたら、死ぬことはないが、生きていけないだろう。
ある種の人は、「絵を描く」という反復を禁じられたら、死ぬことはないが、生きていけないだろう。
ある種の人は、睡眠用BGMとして、いつもの「登山靴の音の繰り返し」を聞かなければ、一気に不眠症になってしまうだろう。
例を出せばキリがないが、この「習慣欲」という側面だけ切り取れば、私も含め、人類は皆「オナニスト」(自己完結的な自分の世界での充足が人生の目的になっている人種)である、と言えるわけである。
そして問題は、「この楽しみのためだけに今日一日を生きてきた」という「人類的オナニズム」を満たそうとしている瞬間を、阻害されたり、奪われれば、どんな人種であろうと、どんな国家間であろうと、「喧嘩」になっても、「戦争」が起きても、一向に構わない理由として十分である、という一点である。
さて一方、「男性的オナニズム」というものは、何か? といえば、「他者を徹底的に排除した非コミュニケーション的な時空間で、非実利的な構築性そのもの対して凝り性である思考や志向全般のこと」のことである。
わざわざ男性特有の性質である、と区別したい根拠は、後にも詳しく語る通り、「射精」という生理現象のメカニズムに起因している。
事実、「射精」後の精神状態は、それまでの「構築性」が「完成」する瞬間ではなく、それまでの「構築性」が「崩壊」する瞬間に他ならない。
「今まで築き上げてきたことが、全て無駄になった」と思う瞬間である。
「射精」後は、全く多幸感に溢れた精神状態ではない。また、清々しいすっきり感も、実は、全くない。むしろ、自身の肌により醜い汚れが付着していっているような感覚しか残らない。
本当の意味でストレス解消になっているのか、疑問ですらある。むしろ、極度に不機嫌だったりする。
女性にとってはいい迷惑なわけだが、「全て無駄になった」という精神状態が必ず訪れる、ということを男性は熟知しているからこそ、「射精」後の男性は、「もっと真面目に何かを『構築』し直さねば。そうでないと、自分には、社会的価値がまるでない、ということになる」という思いに駆られるわけである。
男女で「性愛」の定義自体は全く違う、ということは、それに費やしている「構築性」も全く性質が違う、ということなのである。
後に詳しく述べるように、性愛に関することだろうが、そうでなかろうが、「射精」前だろうが、「射精」後だろうが、男性の持つ「構築性」への凝り性という性質は、女性の抱く妄想・願望と違い、少しも実際の生活や現実のコミュニケーションに役に立たないものばかりである。
それでも男性は皆、大真面目である。
男性は誰しも「僕が考えた〇〇」という時空間を持たなければ生きていけないからである。
極言すれば、最適な射精に至るための性愛的な側面の「僕が考えた〇〇」という「構築性」と、射精と直接関係ない思考実験としての「僕が考えた〇〇」という構築性、この二つのラインの「構築性」への「オナニズム」(自己完結的な自分の世界での充足)の反復こそが男性の人生そのものである、と言っても過言ではないのだ。
よって、「男性的オナニズム」は、冗談でも誇張でもなく、人類の「社会活動全般」に関わる「過程」であり、「結果」であり、「原因」なのである。
以前、さまぁ~ずさんが、『さまぁ~ず×さまぁ~ず』内で仰っていたが、女性は、お笑いライブに行って、楽しんで、それで終わりの人が多い、という。それに反し、男性は、お笑いライブには行くし、楽しむが、それで終わらず、そのお笑いライブのDVDを買い、何度も見返す、という。――なぜなら、「そのお笑いライブが、あるいは、コントが、どういう風に『構築』されているのか、その構造を考察するから」である。
枚挙に暇はない。
たまの休日に車いじりという「構築性」に熱中してしまう欲求も、ガンダムのフィギュアを収集してはそのフィギュアの立ち位置に関する「構築性」に凝ってしまう欲求も、おじいちゃんの庭いじりに対する「構築性」も、皆、「男性的オナニズム」である。
絶対に馬鹿に出来ないものである。
今回の、第五次中東戦争が勃発したのも、これらの「男性的オナニズム」のサイクルが上手くいかなくなったからではないのか? とすら考えられるレベルで、馬鹿に出来ない。
さて、「男性性」の本当の正体や「オナニズム」(自己完結的な自分の世界での充足が人生の目的になっていること)の正体を暴くために、本稿は、精神分析の祖であるフロイトさんの『心理性発達理論』における理論と、その系譜を継いだラカンさんの『享楽』と『中断』の理論を活用させてもらうことにする。
ググれば分かるようなことを今更らしく語るのは恥ずかしいのだが、まず、登場用語とその意味を一通り紹介しておこう、と思う。
まず、「快楽原則」と「現実原則」。
「快楽原則」とは、欲望そのもの、即ち、幼児的な欲望そのもの、即ち、他者への思いやりなど一切ないような欲望そのもの、のことだ。
この「快楽原則」は、大人になっても残っているものである。
「でかい露天風呂の中で、おしっこしたいなぁ」とか、「電車で、満員電車だったとき、自分以外、死ねばいいのに」とか、「こいつの顔、気に食わねぇなぁ、殴りてぇ」これらの例は、すべからく「快感原則」の類である。
一方、「現実原則」とは、「快楽原則」(幼児的な欲望そのもの)を「抑圧」しなきゃ、と思い、理性によって社会性を保とうとする、という意識のことである。
その上で、「超自我」というものがある。これは、「現実原則」(理性的判断)以上の、「社会的掟に対する脅迫観念」の意識である。
いきなり、「原則」でない字面が出てきたから、読者は戸惑っているかもしれないが、事実、字面自体が、分かりづらくしている一因かもしれない。
これが、「超自我原則」とでも命名されていれば、『ああ、なるほど、「快楽原則」、「現実原則」、「超自我原則」ね」と理解しやすいだろうに、と悔やまれる。
この「超自我」(社会的掟に対する脅迫観念)は、今、この文章を書いている自分自身がまさにそうである。
「おい自分。専門用語、誤って伝えてねぇだろうな。誤った形で伝えたら、いくらお前がアマチュアの物書きとはいえ、恥をかくことになるぞ?」
こういう意識が、「超自我」だ。
これまでの社会常識では、自分自身の幼児的な「快楽原則」(他者を一切無視した形の純粋な快楽を求める欲動)を、「現実原則」(理性的判断)で抑え込み、「超自我」(社会的掟への脅迫観念)からの命令により、「現実原則」(理性的判断)に妥協・迎合することが、「大人」になることであり、人間として「成熟」してゆく過程である、とされてきた。
が、2023年の日本の社会は、むしろ、「大人」になることや「成熟」することから逃げる生き方を助長している社会、と思われる。
一生、「童貞」でも許される社会である。
一生、「就職」や「面接」を経験しなくとも、許される社会である。
この観点から見れば、大成しているyoutuberやインフルエンサーの方々は、「食えているオナニスト」であり、「食えている引きこもり」ゆえ、別段、それで食えているから、と言って、「大人になった」とは一概には言えないのである。
話を戻すと、「超自我」(絶対的掟への脅迫観念)と、「現実原則」(理性的判断)と、「快感原則」(純粋な欲望そのもの)という三者は、別段、「中心」があるわけでない。
どの領域が「無意識」の領域で、どの領域が「意識」の領域なのかも、その都度、それらの関係性・立ち位置によって可変するわけである。
早い話、「否定」や「拒絶」の方から探った方が、それぞれの正体がよく分かる、と思われる。
自分が「したくないこと」という「快感原則」(純粋な欲望そのもの)から「現実原則」(理性的判断)から見出せるように。
自分が「多様性」(「超自我」≒社会的掟への脅迫観念)に「拒絶」を感じたときに、自分が本当に求めているものが何か、という「快楽原則」(純粋な欲望そのもの)に気づいたように、である。
自分は以前、「自然体とは一体何なのか?」についてTwitter上で語ったことがあったが、それは別段、「自然体」という「中心」が初めからあるわけではない。
あの人に比べて、もっと、スローなテンポで喋ってもいいのではないか、とか。
このような社会的雰囲気において、もう、無理に緊張するようなことを、わざわざする必要がないのではないか、とか。
何かと比較や関係性を持ったときに、出現する概念なのだ。
よって、「他人を傷つける笑い」という言葉があるが、「他人に影響を与えない笑い」は、存在しないわけである。
以上の用語説明の中で問題なのは、この「超自我」(社会的掟への脅迫観念)の意識が、社会全体から弱まっていることだろう。
2023年現在、日本の「超自我」(社会的掟への脅迫観念)の定位置に、「多様性」という方が、我が物顔で座っていらっしゃるお蔭で、
「我々、オナニスト(自己完結的な自分の世界での充足が人生の目的になっている種族)はオナニスト(自己完結的な自分の世界での充足が人生の目的になっている種族)のままでいいよ」
という、ぬるま湯に浸かり続ける権利を得ているのだから。
むしろ、「拒絶」している「多様性」に対し、感謝しなければならない、ということかもしれない。
そこに、ほぼ無料化されたコンテンツやサービスが浸透しきったことで、自分の「快感原則」(純粋な欲望そのもの)は、歴史上なかった程に、最大化・最適化されてしまっている。
ここらの問題領域は、評論家の東浩紀さんの著作『動物化するポスト・モダン』や、岡田斗司夫さんが語っておられるような問題領域である。
ところで、話ここに至ると、当然、一つの疑問が浮かんでくるだろう。
「いや、そんな調子で、どうやってこれからの現実生活を生きていくつもりなんだい?」
と。
だが、心配ない。
「じゃあ、処世術的に、自殺しちゃえばいいや」と思っている「オナニスト」(自己完結的な自分の世界での充足が人生の目的になっている種族)は、かなりの数いるからである。
そもそもの話、我々「オナニスト」(自己完結的な自分の世界での充足が人生の目的になっている種族)は、社会参加に大して興味がないのだから、未来を捨てているのだから、自分の人生を不法投棄してもいるのだから、「これ以上、苦労して生きていきたくない」と思うのは、むしろ普通のことである。
「これまで良いことがなかった」→「これからも良いことがあるわけがない」→「というより、自分は取り換え可能な存在なのだから、自分だけに都合の良いような良いことがこれからあるわけがない」→「嫌な思いをしてまで努力する必要はない」という一連の流れは、少しも異様ではなく、むしろ「順路」であろう。
逆になぜ、そこまで「社会」や「世間」や「人間」というものに「未練」がないのか? と問われれば、我々「オナニスト」(自己完結的な自分の世界での充足が人生の目的になっている種族)は、「快感原則」という自己満足世界に浸りすぎて、もう、現世を生き抜くための「生命エネルギー」がない、あるいは、限りなく「薄い」人間になっているからである、と答えざるを得ない。
以前、「生きる欲望が少なすぎるのも、一つの病理である」ということを、自分の第一小説『私クレジット』で記述したことがあるが、実際、そういう人種は発見されないまま潜在的に多数存在している、と思われる。
希望がなければ、絶望もしないのである。
そして、それは一生「自立心が育たない」ことと、ほぼ同義である。
「一生、オナニズムを許容するよ」という言葉は、「一生、自立しなくてもいいよ」と同義なのである。
疑う者は、私を見よ、である。見事にこの私は、「自立心」が、41歳になってもゼロのままである。
社会復帰する「自立心」など、みじんもない。
そして、それを「恥ずかしい」とも思っていない。

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