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吾輩は虎猫である

同郷の知人(友人?)と食事をした。彼は世の中的に言えばメインストリームをがっつり外れている人。

私はこの春アメリカからまあまあ良いポジションの仕事を辞めて日本帰国を選んだ。それについて悔いは全く無いのだけれど、宙ぶらりんである今の状況は、無職と呼ばれるのが妥当だろう。結婚でもしていれば「主婦」という立派な肩書きができるのだがいかんせん未婚な訳で。そうすると益々今の自分の代名詞は何か?となる。

知人は、特定の職には何年もついておらず、自分を解放して呼ばれた場所に行くという、かなり特殊な日々を送っている。そんな彼を人は、無職、社会不適合者、放浪者、ロックな人、王子様、、などなど様々に形容するらしい。余りにも特殊過ぎて否定派と肯定派に大きく別れる。

私は彼を現代のキリストだと思った。テレビや雑誌への出演や出版依頼なぞはわんさかあり、その気になればそういうキラキラした世界に行って大金を稼いで安定したお金持ちの一員になる事は彼にとって容易なのだが、それをあえてせず庶民に寄り添う姿が正に現代のキリストだと思った。本は1冊だけ出したみたいだが。

最近知人が呼ばれて会いに行ったある女性は彼のことを「サラブレッドの馬車」と呼んだ。ホントその通りだ!ナイスネームングセンス!と思った。

結局肩書きなんて仕事がなくなれば外れてしまうし、お金持ちはお金が無くなればそれまでだし、肩書きなんて無くても自分達そのもので勝負すればいい、と彼は言った。私も横で頷いて賛同した。だけどなんだか腑に落ちない気持ちになり脳内を整理したら、彼には全国津々浦々彼に会いたい人達がごまんといて、毎日呼ばれた所に出向く日々を過ごしている訳で、それってある種の聖者的立派なお役目を果たしていて、ただ単にこの普通の日常にその呼称がないだけかもしれないと感じた。

そこへくると私は私である事の自己受容が今試されてるんだなぁと思う。とは言いつつ、内実根本的絶対的な自分への信頼があり揺らがない自信がある。なので肩書きなんて無くても自分は自分と思っているし、本当の所、自分は本質的にはおっきな猫ではないか、と思っている。吾輩は猫である。

ではなぜ悩むのか。
それはこの人間社会の枠組みに入っている以上、対外に自分をどう説明するかという課題がのぼる。

次はどこで何をするの?仕事は探しているんでしょ?と聞かれまくる現状、フーテンの寅さんをしています、と応えてとりあえず今は笑いを取っている。

冒頭の<知人(友人?)>にもあるように、こういった選別や定義付けについてはかなり不得意で、また改めて別で書き込めるほどの課題である。

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