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プロの素人

何者でもない私。
私はいわゆる何者でもない。氏名のほか名前がついていない。

有名になってしまった人はもう得られないものかもしれない。
有名になりたい憧れを持つ人が多いことは知っているが、
私は有名にはなりたくない憧れを持ったこどもだったように思う。

何かの『プロになりたい』と思えなくて、ある時『プロの素人になる』というフレーズを生み出し、自分の頭の中で宣言してみた。
今その言葉通りの『プロの素人』に成れているのだろうか?
あまり実感がない。まだ道半ばかもしれない。

『素人というプロがいる』ことが世間に認知されていないことも原因だろうか。言葉は認知してもらえる人が多数集まらなければ、くっきりした輪郭を得ない。発した言葉は光があたって初めて形を得るようなところがあるから、まだこの言葉のまわりの光が弱いのだろう。)


思うと20年前(2000年)にはまだ一部のギークのものだったテクノロジーが、今はいっぱん的に必須アイテムになっていくのを見てきた。

時代はちゃんと20年かけて流れたので急激とは思わないが、それでも点で20年前を見てみると、生活環境は変わったと実感できる。
そして私は今の生活環境の方がいいと思える。
今がいいと思えることが嬉しい。

(夢から覚めて「ああ覚めてよかった。」と思った時、現実の方がいいと思えたことに喜ぶのと似ている。)

今から20年後もちゃんと20年を経て今と環境が違う世界になっているのだろう。きっとその時も今の生活環境の方がいいと思えるような気がしている。


物語は、何者でもないこどもが何者かになった大人になるのが定番だ。けれど、何者かに憧れられないこどもにとっては、それらの物語では満足できない。
こどもにとって、憧れる何者かがいると容易い道も、いなければ視界の悪い道になる。間違った道を歩いているような不安をいだきながら、けれどどうしても違う道は歩けずに前の道らしきものを踏み進めていくしかない。

私の何となくの20年後の見通しのようなものは、20年かけてゆっくり変化した後の世界は、何者でもないこどもが何者でもない大人になる物語がこどもたちの耳にも入ってきているのではないかと思っている。『プロの素人』も増えている気がする。

そんな見通しを立てたのは今の若い人たちを見てのことだ。
今の時代の若い人たちに、何となくそんな雰囲気をもつ人が居る気がしている。何者かになった大人だとされても、本人の感覚として何者でもない大人であることを主張する人が増えてきた気がする。


こどもの時目指すものがあることはとても健康的だと思う。
こどもだったわたしが大人を見上げた時、何か自分とは大きく離れたものを感じてとても自分が向かう場所に思えなかった。その違和感は正直さの欠如から来るものだったかもしれない。大人は正直ではないと感じていた。
大人になってみれば、正直に語ることの照れや、正直で居られない言い訳みたいなものも身近にはなったけれど、その場所からではこどもに響くものは出ないだろう。

こどもの頃のわたしがもし今のこどもたちの中にいたら、やはり生きづらさは感じているだろう。けれど、正直に語る大人を何人かは見つけられて、ちょっとは落ち着いて道を進めたのではないだろうか。
大人になった私も、自分のようなこどもが歩く道を、視界が悪くても安全だと思ってもらえる道にするための役に立ちたい。正直に語ってくれる大人は私がこどもだった頃欲しかった人だから、そうありたい。

あなたと、道半ばの道を歩く者同士として、一緒の時代を生きていけたらと思う。



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