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丸でもあり平らでもあること。

今日は大震災から10年の日となり、テレビやSNSでもそのことを目にする。
少し前から何となくずっとこの日のことを意識していて頭に浮かんできたことを少し書いてみたいと思う。

「なぜすぐ高台に向かわなかったのか」と、あの時の自らに対し、怒りにも似た後悔をする人達がいることをテレビを通して目にしてきた。なぜ…。

事は簡単なことのように見えて、とても難しかったのかもしれないと思う。
そこには確固たる日常があった。あれだけ揺れたけど、まだ日常は続いていたのだと思う。崩れた戸棚の物を片付けたり、少し崩れた日常を急いで元通りにしようとする人の行動を想像できる。

しかし自然のルールは違った。人はそのことをもっと日常的に体に馴染むほど知っていなければならなかったのかもしれない。何十年何百年とそこは町だったし、住む人にとって生活のすべてがあったその土地は、昔の昔は砂だけが広がる海辺だったのかもしれない。

揺れに耐えうる家をつくることができ、豊かで人の確かな温度がある町であった事実と同時に、そこは何も無かった海辺であったのかもしれない。

豊かな町であると同時に、何もない海辺であるということをどう理解しておくべきなのだろうか。

わたしは町が流されてしまい、まるで更地になってしまった光景をテレビで見たとき、「もうそこに人は住んでほしくない。住まないで。」と勝手に願った。しかし今日またそこに住み直し、町を耕し直そうとする人達に批判的な感情は持てない。彼らにとってはそれが重要なことに感じているのがわかるから。


少し、俯瞰で見てみる。

Google Map をちょっと縮小してみると、あっという間に日本は長細い島になる。地震はあるは台風くるはのこんな小さな島によく住んでいるな。と思える。わたしが外人さんなら日本に住みたいとは思わない気がする。わたしはたまたま日本に産み落とされ育ったので、きっと愛着があるのだろう。今や日本に住むことに疑問など感じていない。そうやってわたしの日常は作られていったのだと思う。

ここで、日常の目線に慣れたときどきに、非・日常の目線を組み込むことをわたしは提案したい。たとえばGoogle Map を縮小しつづけ、地球をビー玉サイズにして見る。地球は丸い。真っ暗な空間に浮かぶ心もとない一粒。

地球は丸いし、どこまで行ってもたとえ一周しても、平らなのだ。地球は丸いことと、地球は平らであるという矛盾のような2つの事実を、両脇に常に等しく抱えていることが重要に思える。

そのときが来たとき、この場所が町であるし、海辺であるという事実を、道路であるし、ただの山であるという事実を思い出せることは生き物であるわたしたちには重要なのかもしれない。
特に、町であるし、海である地域に住むわたしに強く言い聞かせたい。





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