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旅とお茶と、モモとエンデ

旅行や出張の際、お茶セットを毎回必ず持っていきます。

慣れない場所で。
好奇心を刺激される場所で。

ちょっと一休み、一呼吸置く時間はとても大切です。

帰宅して、数日離れた自宅の、いつもの場所で、いつもの器で、いつものお茶を飲んだ時の、「あ、帰ってきた。」とホッとする感じ。

年明けから、ベトナムへ約3週間。
その後、福岡・熊本・宮崎・大分・京都と短期間で回る事がありました。

先々でいつものようにお茶を飲んでいましたが、そこで思い出したのは、モモの作家、ミヒャエル・エンデの『エンデのメモ箱」』にあるお話の中の言葉。


【魂が追い付くまで、待たなければならなかった】


もう何年も前の話だが、遺跡発掘のために中米の内陸へ探検行した学術チームの報告を読んだことがある。携行する荷物の運搬のため、幾人かのインディオを強力として雇った。この探検にはこまかな日程表が組まれていた。初めの四日間は思ったよりも先へ進めた。強力は屈強で、おとなしい男たちである。日程表は守られた。

だが五日目に突然インディオは先へ進むことを拒否した。インディオたちは黙って円になり、地面に座ると、どうしても荷物を担ごうとしなかった。学者たちは賃金を釣り上げる手に出たが、それも功を奏しないとわかると、インディオたちをののしり、最後には銃で脅かしさえした。インディオたちは無言で円陣を組み、座り続けた。学者たちはどうすればよいかわからなくなり、ついにはあきらめた。日程はとっくに過ぎていた。

そのとき ー 二日過ぎていた ―  突然、インディオたちはいっせいに立ち上がり、荷物をまた担ぐと、賃金の値上げも要求せず、命令もなしに、予定された道をまた歩きだした。学者たちはこの奇妙な行動がさっぱり理解できなかった。インディオたちは口をつぐみ、説明しようとしなかった。ずいぶん日にちが経ってから、白人の幾人かとインディオの間にある種の信頼関係ができたとき、はじめて強力の一人が次のように答えた。「早く歩きすぎた」とインディオは話した。「だから、われわれの魂が追いつくまで、待たなければならなかった」

(ミヒャエル・エンデ『エンデのメモ箱』田村都志夫訳、岩波書店)

体と心と魂。

心が追いつかない事は日常の中でよくあるように思います。

心が先走って、体が追いつかない事も。

では、魂は…???

体という入れ物に、心があって、その真ん中に魂があるような。

乗り物に乗って体が動き、目的地について心が騒ぐ。

どこかフワッとした感覚になる。
現実のような、夢のような。

生活している場所や人や時間を一瞬忘れてしまうような。

帰り道。
乗り物に乗って体が動き、帰宅して心が落ち着く。

でも、まだどこか旅先にいるような。
音も、光も、匂いも、肌にあたるジリジリとした陽の強さや、毛穴がキュッとしまるような寒風とか。

もうとっくに消化されてしまった旅先で食べた料理の味が、まだ鮮明に口の中に残っているような…。


この時、魂はどこにあるのかな。

まだ、きっと追いつけていないのかも。

お茶を淹れる。
お茶を飲む。
香りを、温度を、味わいを感じる。
体でそれを感じる。

心がホッとした時に。

「体と心はここにあるよ。」
と、手を挙げて、魂の帰宅を待つような。

なるべくはやい方がいい。
なるべく手短に。
なるべく簡単に。

それもいいのかもしれない。

でも。
少し時間をかける事。
ちょっと手間をかける事。
ちょっとの面倒をやってみる事。

そんな時、あちこち向いたり、少し離れ離れになってしまった、体と心と魂が
「ただいま、おかえり」
と言いあっているのかも。

その時の、心の穏やかさ、体の健やかさ、様々なものがクリアになっていく感じ。


『モモ』の中で、ミヒャエル・エンデはこう書いています。

光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのとおなじに、人間には時間を感じとるために心というものがある。
そして、もしその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだ。


旅の中で、毎日の中で、日常の中で。
あなたの心は時間を感じていますか?



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