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記憶力、自己肯定感、コツ、呪い。

おはようございます、こんにちは、こんばんは。

今日はいつからか個人的に考えていた、感情のコントロールと言葉の話をしたいと思います。


読者さんは記憶力がある方でしょうか?私は自分の記憶力は低い方だと思います。

何かを暗記することを誰かから課せられる場面は稀によくあると思います。特に学生時代はその様な場面の連続でしょう。

私は学生時代、それも大学受験の途中まで、この「暗記力」という言葉に踊らされていました。


言葉の力

「暗記力」という言葉以外にも「力」とつく言葉は沢山あります。「耐久力」「攻撃力」なんかは小学生の当時、ゲームでとても馴染み深い言葉でした。

「走力」「筋力」「計算力」まぁなんでも良いのですが、当時の私は「暗記力」という言葉に対してとても苦手意識がありました。

例えば人の名前がとにかく覚えられない、小学校は1学年40人に満たない学校でクラス替えが無かったにも関わらず、クラスメイトの名前を全員分ちゃんと覚えたのは小学六年生の夏とかだったと思います。

それまでは「ねぇねぇ」とか呼びかけて、何とか凌いでいました。

その割に漢字は覚えられる、数学も不得意ではない、英単語は少し苦手、歴史は…全然覚えられない。そんな学生でした。

大学受験の時期、塾に入っていなかった私は自分で勉強を進めていて、単語帳を10周しても20周しても英単語が2割しか覚えられていない事を嘆いていました。

なんなら、その2割も時々忘れてしまう。英単語の意味を思い出すのにも時間がかかって文章を読むことに専念できない。

暗記力が足りない、だから暗記力を鍛えねばならない。しかし現実的な問題としてセンター試験が迫ってくるからそんな時間は取れない。どうしたものか、と。

そんなある日、唐突に思い到りました。「暗記力」って「力」じゃなくて「コツ」なのでは?と。

信じられないかもしれませんが、私がその事に気がついたのはセンター試験1ヶ月前とかそんな頃合でした。かなり精神的にまいっていた時期に、何故その発想ができたのか自分でも謎です。

よく同期の友達から「なんでそんなに覚えられないの…?」と心配されていたレベルだったので、ただただ私自身の能力が低くて、これは自分の特性なのだと半分決めつけて諦めていました。

英単語帳を500周するしかない…そう考えていました。

友人たちが英単語帳20周程度で大体の単語を覚えてしまうなら、その何倍も読み込むしか自分には道が残されていないと。

しかし、もしも何か暗記に「コツ」があるなら、これは自分の人生に革命が起きるぞと思い、センター試験そっちのけでその「コツ」とやらを模索する日々が始まりました。

暗記「力」は「力」ではない

当時暗記ができる人に対して持っていた最大の偏見は、「その人はその瞬間の記憶をずっと保持し続ける能力が高い人なのだ」というものでした。

つまり、各英単語を覚えるにあたって、英単語帳のページを思い出せる能力が高いとか、何ページに書いてあったのか思い出せるとか、そういうイメージなのだと思い込んでいたのです。

しかも彼らは脳内にその記憶を留めておく「力」が非常に強く、1度覚えたことは二度と忘れないのだと。つまり、CPUのメモリのように永久記憶する能力が高いのだと勘違いしていました。

この勘違いは、完全に「暗記力」という言葉のせいでした。

つまり、「暗記力をつける」という文脈が、私にそう勘違いさせていました。

この勘違いは一浪したその年の間に解決し、数学科にも入れたのですが、この勘違いをどう改善したのか?ということについて、未だに上手く言語化する術を持ち合わせていません。

この暗記に対する態度というか感覚を多くの人に伝わる表現として言語に落とし込む事は、私の夢のひとつです。

「自己肯定感をつける」という文脈

私がこの経験から思うのは、「自己肯定感をつける」という文脈も、「暗記力をつける」という文脈と同じような毒があるように思うという事です。

つまり、「自己肯定感が低い」という文脈というか言い回しは、なんだか実際の状態に即しているような気がするのですが、「自己肯定感をつける、鍛える」という文脈はなにか違和感があるのです。現実に則していない気がします。

私は今現在、自己肯定感で悩んでいなくて恵まれた環境にいるのですが、その状態から見て自己肯定感が低かった時のことを思うと、自分が「自己肯定感をつけて改善した」というようには思えないのです。

つまり、「自己肯定感がある」のではなく、「自己否定感が無い」という方が正確なのでは?と思うのです。

例えば寒さ、空腹、孤独等に常に晒されていると、純粋に自分を肯定する機会を失います。これは私個人の体験としてです。

しかしそれ以上に、周りに自分を常に否定してくる人がいる場合、優しい人であれば優しい人であるほど自分を責めがちです。現に私がそうでした。

ではあの状態は「自己肯定感を鍛えれば」解決したか?答えは明らかにNoだと思います。

自己否定感さえ育まれ無ければなんでもない様に思うのですが、いざ自己否定感が芽生えてしまうとこれは厄介で、あらゆる反省の責任を自分に押し付けてしまいます。

これは「自己肯定感が無い」と言うよりも「自己否定感が強い」と言う方が、実際の状況に則していると思います。

その上で「暗記力」という言葉に呪われていたあの時の自分を思い返して比較すながらSNSを眺めると、「自己肯定感が欲しい」という人が沢山いて、あぁこの人たちは優しすぎるんだな。と思うわけです。

そして何より怖いのが、そのレベルまで優しくない人が、優しい人を責めるという事です。

優しくて自己否定に陥るという実情を、優しくない人は鑑みて発言してくれません。その状況から放たれるあらゆる言葉は、優しい人にとってあまりにも鋭すぎます。

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