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シカ、猫、犬、倫理教育。

おはようございます、こんにちわ、こんばんわ。ここ数日執筆意欲が高いです。

数か月前にアレルギー検査のために病院で採血をしたのですが、やっと本日その結果を受け取る事が出来ました。

コロナウイルスで基本的に外出を控えていた為、受け取りに数か月かかってしまいました。

そもそもなぜアレルギー検査を受けたかと言いますと、わたしの彼女がものすごい猫の好きな人でして、彼女の家に遊びに行くたびに喉や目がかなり痒くなって猫アレルギーの疑いが出たためです。

将来二人暮らしをするにあたって猫を飼える飼えないは重要問題です。私も猫が好きですし。

結局私は猫アレルギーではありませんでした。彼女の家で反応しうる他のアレルギー結果が出たため猫は飼えそうです。安心しております。

そんな訳で、今日は私と動物に関する話をしようと思います。本当に個人的な話です。

シカ、生命

私はがっつりと山育ちだった為、子供のころは虫を取ったり殺したりして遊んでいました。

虫を殺して遊んでいた。というエピソードを聞くとギョッとする人が結構多い気がします。家庭にもよりますが、冷静に考えて子供ってそんなもんです。子供ってある意味残酷なものです。

親が研究職なことから実験にラットを使用する話なども聞いていましたし、昆虫を殺すことに対する抵抗感は微塵もない子供でした。

宗教色もほぼない家庭で、無暗な殺生は控えろという類の教育は受けたことがありません。

というか、インターネットもなく外に山と川と森が広がっている状況の小学三年生が虫を殺して遊ばないわけがないですからね。蟻地獄に大量の蟻を投入したり。


ところで読者の皆さんはどのぐらい野生動物に遭遇したことがあるでしょうか?知り合いに聞くと、田舎の人間ほど遭遇したことがあり都心の人ほど無縁というイメージが私個人の体感としてあります。

私は何回もあるのですが、その中で当時考えたことについて少しお話しします。

動物園にいる動物と違い、ほとんどの野生動物というのは人間に対して友好的ではありません。もちろん奈良のシカや地獄谷の猿など例外はあります。

遠目から見たり車内から見たことは数多いですが、近距離で感じたことはまだ二回しかありません。二回とも体験としては似たようなことで、感じたことも似たようなことでしたので一回目のことをお話しします。



私の地元は奥まったところに、お茶のCMに出てきそうな大きくて奇麗な滝があり、私にとって一種の秘密基地のような場所でした。

地元の人も知らない場所というほどでもないのですが、その場所に用事がないので知っていても誰も来ない場所でした。

私はマイナスイオンなどの類の言説は全く信じていませんが、滝の周りのコケや植物の匂い、大量の滝の飛沫などが精神的な安らぎをくれることを体験として知っています。

私はその場所が大好きで、友達と遊ぶ予定の無い日はたまにその場所に足を運んでぼうっと物思いに耽っていました。

そうしたある日の事、いつものようにその場所に足を運ぶと、そこには雄のシカがいらしていました。滝が奥まった場所にあるせいでかなり近くに行くまで気がつきませんでした。

距離的には7メートルほどだったと思います。彼を見たときに私は「死ぬ」と思いました。

シカが車と衝突して車がへこんだ話は何件も聞かされていましたし、身体も小さい当時の私にとって彼の体躯はあまりにも雄大で、あまりにも現実的な感想でした。実際、もし突進されていれば助けも呼べないですし死んでいたかもしれません。

しかし彼は私の気配に気が付くとギョッとこちらを一瞬見て、滝の横のほとんど道になっていない急激な斜面を凄まじい速度で駆け上がって逃げていきました。

私はそのあとその滝で一時間ほどぼうっとして、それから帰路につきました。

その時のことについて大人に話したことは、まだ一度もありません。

彼から学んだこと

これは生き残ったから言えることですが、私はあのシカとの遭遇と昆虫を殺してきた経験によって、自分の中の生命に対する倫理観教育が全て終わってしまいました。というか、体感してしまいました。

弱い側が殺される。もしそれが肉食動物による殺傷であり食に飢えていれば食われる。それ以上でもそれ以下でもありませんでした。

なにより、あのシカの姿はあまりにも雄大でした。彼はただ生きるために生きていて、生に対して純粋な存在なのだと知ってしまいました。

生き物として振る舞うというのはあのことでしょう。それまで世間で言われるオーラだとか気だとかいうものを信じていませんでしたが、言葉が適当かどうかはさておきそうした言葉を作り出した先人の気持ちは分かるようになりました。

それ以来、スーパーに並んでいる全ての肉は、動物の死体を加工したものなのだと実感するようになりました。

「いただきます」という言葉を食材ではなく作った人や生産している人に向けて言うようになりました。食材に対していただきますということが人間のエゴだと感じるようになったからです。

世の中のほとんどの思想や物事は積極的に自分の中に蓄えていこうと思っていますが、こればかりはいくら言葉で言われても、あの日の私の体験を覆せるような事がこの身に起こらない限り変わりそうにありません。

人間社会では弱肉強食の輪から外れているかのような生活を疑似的に送れます。物凄くありがたいことです。

人間社会と弱肉強食の狭間

以上の体験や思考を通して、ペットという存在は物凄く特殊だと思うようになりました。

我が家でも雄の豆芝を一人室内で飼育しているのですが、彼は人間社会的に労働することもなければ屋外へ狩りに出かけることもありません。

人間にとってかわいい。その理由一つでその輪から外れている。あるいは人間社会に帰属している。

ちなみに彼と私は近所の知り合いみたいな付き合い方をしていて、こちらが出合いざまにペコリと軽く頭を下げると彼もペコリと返してくれます。エサなど彼の世話は、彼を飼いたいと言い出した弟と父がしています。

冒頭で申し上げた通り、私も猫を飼いたいと考えているぐらいには猫が好きですから、ペットである彼、彼女らに対してはほとんど人間みたいにコミュニケーションしています。

人間の言葉は喋れない、水とご飯を美味しそうに食べる四つ足のかわいい人間です。

以前友達の家に遊びに行ったとき、友達の家の飼い犬に「こんにちは、お邪魔してます。」と挨拶したところ「え、敬語?」と友達に突っ込まれました。

無意識の敬語だった為、なかなか動物に対する礼節はあるのではないかなと自負するようになりました。

彼女と猫と私の三人で暮らす日を楽しみにしています。

今日はこんなもんです。最後までお読みいただきありがとうございました。

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