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忘れられた自由・平等のパイオニア(中編)

前回の記事

では、フンボルトの20代、鉱山監督官としてのキャリアやゲーテとの出会いについて書きました。
そして、鉱山監督官の職を辞したフンボルトは、冒険家を志して動き出します。

1、旅立ち、一筋縄ではいかず

フンボルトは、相続した遺産をつぎ込んで高価な書物や最新の測定機器を購入、1年余りかけて旅立ちの準備を整えます。
ちなみに、彼は行きたいところがあまりにも多すぎ、友人たちにも色々な話をしています。
彼が行きたいと語った場所は、ラップランド、イタリア、ギリシャ、シベリア、西インド諸島、フィリピン…寒冷地から熱帯、アジアからヨーロッパまで、その範囲は様々。友人の間では、一体彼はどこに行くつもりなんだ、と話題になっていたようです。

しかし、彼の生きたい先を見るとこんな傾向が見て取れます。
彼が住むドイツや立ち回り先のフランスなどは、主に温帯地域です。
彼はそれとは自然の景観が異なると考えられる場所を目指したのでしょう。
ラップランドやシベリアは冷帯や寒帯、西インド諸島やフィリピンは熱帯に近い気候です。

しかし、イタリアやギリシャは同じ温帯(地中海なので植生は違いますが)です。しかもそれほど遠くない。
彼がこれらの場所を訪れたいと思った理由は、火山にあると思われます。
例えば、イタリアにはヴェスヴィオ火山がありますね。

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彼は、火山活動は局地的な現象なのか、それとも地下でつながる地球規模の活動なのかに関心を寄せていたのです。
そして、火山活動が地球の誕生についてのカギを握っていると考えていたからでした。

そんな夢を膨らませ、準備を整えるフンボルトの前に、時代の荒波が押し寄せます。
何と、ヨーロッパ全土を巻き込む戦争が勃発したのです。
それは、1792年から1799年にかけて起きたフランス革命戦争

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でした。
陸上・海上で激しい戦闘が繰り広げられ、各国内の自由な通行や植民地への航海も、非常に危険な状態になっていたのです。

フンボルトは当初、多くの海外領土を持つイギリス、フランス、オランダに助力を依頼しますが、結局挫折します。
そこで、頼みの綱として1798年、スペインに向かいます。
当時のスペイン国王はカルロス4世

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フンボルトがスペイン王宮の関係者に人脈があったため(ここで貴族の生まれが生きました)、奇跡的に国王との謁見が許されます。

さらに、カルロス4世は、資金はフンボルトの自腹であることを条件に、南米のスペイン領とフィリピンへのパスポートを与えてくれたのです。
外国人であるフンボルトに対するこの扱いは破格で、王宮の人々を驚愕させたそうです。

この時、フンボルトはその対価として、スペイン王立植物園に現地の動植物を送ることを約束しています。
狩りが趣味で動物に関心があり、自らの権威づけのために新大陸の希少な動植物を誇示したかった国王にとって、フンボルトの提案は魅力的だったのでしょう。

2、新大陸へ!

紆余曲折を経て、フンボルトはついに大西洋を越えます。最初に降り立った新大陸の土地は、現在のベネズエラでした。

初めて降り立った熱帯の大地。
大きなヤシの木、色鮮やかな動植物を目にし、彼は大興奮します。
彼は兄にあてた手紙で「私たちは正気を失ったかのように走り回っている」と書いています。
まさに彼はこの地を駆け回り、膨大な動植物サンプルを収集していました。

そして彼は、その収集の中で一つの試みをしました。
それは、「南米の自然」と「ヨーロッパの自然」の比較。
初めて見た動植物に感嘆するばかりではなく、両者の共通性にも目を向けたのです。
熱帯と温帯の持つ風景は異なるものの、両者には共通点が少なくないことにも彼は気づいていたのです。
そして、この経験が彼の自然観を決定づけていきます。

下の図が、彼がこの調査で辿った全行程です。
1800年当時と考えると想像を絶する旅路ですね。

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3、新大陸で彼が見たもの

一方、滞在先のクマナの町で、彼はある場所を見て衝撃を受けました。
それは「奴隷市場」
南米大陸に「輸入」されたアフリカ人の人々が売買される光景を目の当たりにして衝撃を受けた彼は、その後ずっと奴隷制反対論者であり続けました。

さらに、クマナを出発してカラカスを目指しました。

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そこからさらに南に進み、地域屈指の農業地帯であるアラグアの谷に辿り着きます。
そこで彼が目にした光景は、開けた土地に整備された農地と咲き乱れる花々。
「理想的な」美しい農業地帯でした。

そして、彼は地域の水源地、バレンシア湖

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を調査しました。
写真で見る通り、山あいにあるこの湖は大きな河川につながっておらず、河川水による流入量は限定されていました。
そして、この地域の人々の話からバレンシア湖の水位が低下していることを知った彼は、綿密な調査の結果ある結論に辿り着きました。

それは「過度な森林開発、農地化が湖を干上がらせている」というもの。
入植者の活動により、気候が変動し環境が破壊されていると考えたのです。
これは、当時としてはかなり斬新な考えでした。

何故なら、当時の植民地における農業開発は、ヨーロッパに古代から受け継がれてきた価値観に基づいて進められていたからです。
それは

・「自然は人間だけのために万物を作った」
・「神は人間に自然を支配する力を与えている」
・「人間は自然の所有者である」

というものです。
これは、アリストテレスやデカルトなど、私たちがよく知る哲学者たちが声高に主張し、聖書にも書かれていることでした。
そのため、未開の原生林は人間が克服すべき禍々しく悪しきものであり、人間の手で整備された農村風景こそ文明的で善きもの、とされたのです。

この考えに反対する者は少数派でしたが、その急先鋒となったのがフンボルトでした。
保水力のある森林の伐採が土壌侵食や湖沼の水位低下を招く、自然は互いに密接につながっており、人為的な行動が自然環境に影響するという考えを主張したのです。
「人間にできるのは、自然の法則を理解し、自然に働きかけ、その自然の力を自分たちのために使うことだけである。」
「森林地帯は涼やかな緑陰、蒸発、放熱という3つの要因により気温を下げる」

彼は図らずも、後の環境保護活動の基盤になる考えを生み出したのでした。

さらに彼らは南下し、オリノコ川流域、大平原リャノに足を踏み入れました。

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リャノではワニや電気ウナギなど未知の生物との遭遇を経験し、先住民インディオのガイドにより、さらに川を上流へと遡ります。
そこに広がっていたのはジャングル。

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今までとは比較にならないほどの生物多様性がそこにはありました。
そして、それをつぶさに観察したフンボルトはあることに気づきます。

彼は、あらゆる動植物は、神によって役割を与えられ、棲み分けがされており、その生存は神の手による天秤によって調整されているとされていた、エデンの園を彷彿とさせる旧来の考えは誤りであると考えたのです。
彼が目にしたのは、もっと生々しい、血まみれの生存競争でした。

4、最高峰への挑戦と「生命の網」

フンボルトたちは、1802年6月、ある山を目指しました。
それは赤道直下にそびえるベネズエラ最高峰、チンボラソ山(6268m)。

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彼らは現在では考えられないほど貧弱な装備で、高山病に悩まされ、鋭利な岩場で靴がズタズタになりながら壮絶な登山を続けます。
彼らが最終的に到達した高度は5917m。
雪原に阻まれ登頂はできなかったものの、当時のヨーロッパの人々で最も高い場所に立った瞬間でした。

彼はその場所から広がる景色を見下ろしました。
麓に広がる熱帯雨林、そこから高度が上がる度に変化する風景、そして目の前に広がるコケに覆われた岩肌と雪原。まるで、熱帯から極地への旅を思わせるチンボラソ山への挑戦でした。
そしてこの時、彼の中で全てが繋がったのです。

自然は「生命の網」である。
全ては糸のようなものでつながっており、あらゆる自然現象は地球規模でつながった力である。

彼は後に、この概念を自然絵画として描いています。

チンボラソ山

自然絵画だけではなく、彼は収集したデータや標本を基に、地磁気図、気候地図、地質断面図を描いています。これらは、後の学問研究の礎になる貴重な資料でした。

自らの考えに確信を持った彼は、あらゆる場所のあらゆるデータを収集することにさらなる熱意を注ぎます。
彼はアンデス山脈を越え、リマからグアヤキルへ船で移動しました。
この時、彼は南アメリカ大陸西部を流れる海流についての調査を行っています。
この時、この海流は水温が非常に低いこと、栄養分が多く、海洋生物が豊かであることを明らかにしました。
その業績にちなみ、この海流は「フンボルト海流」と呼ばれるようになります。

グアヤキルからアカプルコ、そしてキューバへと到達した彼らは、3年にわたる南アメリカ大陸の旅を終えることになりました。
彼の旅の舞台は、カリブ海を超え、北アメリカ大陸に移ろうとしていました。
そこでフンボルトは、ある人物に会うことになります…。

今回は、フンボルトが踏破した南米大陸の旅路と、そこで至った彼独自の概念について書いてみました。
次回は北米大陸編(恐らく後編=最後の記事)になると思います。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

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