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「嫌い」の効果

基本的に人のいいところをみていきたいと思っている。

人はプラスとマイナスがあったら、どうしたってマイナスに目がいってしまう。これは人が生きるために身に付けた脳の仕組みでもある。なので、普通に生きてたら、放っておいても「きらい」とか「いやだな」と思う方にはセンサーが働くし、ネガティブなポイントが見つかりやすい。

一方、「好き」とか「いいな」の方はそうではない。
感度を磨いておかないと鈍ってしまいやすい。なので、できるだけ人でもモノでもいい点や好ましい点を探すように心がけている。

「好き」も「嫌い」も対象にとらわれてしまっている状態だ。
とらわれているのはあまりいい状態ではないように思う。「好き」でとらわれるのは幸せなところもあるのでまぁまだマシなんだろうけど、「嫌い」にとらわれてていいことはたぶんあんまりない。

なので、できるだけ「好き」とか「いいな」の方に目を向けるようにしている。

そう心がけているんだけども、ちょっと前「なんとなくいやだな」にとらわれている自分がいた。

人の感情が動くとき

コーチング講座を受講しているときに「人が感情的になるときの裏側には、その人が大切にしている価値観や信念がある」というのを教えていただいた。

本当にそうだなぁと思う。

私は「寛容であること」を大切にしている。「寛容でありたい」と思ってもいるし、「寛容であること」がこれからの社会には必要なんだろうなとも信じている。

人にはさまざまな価値観や考えがある。それをひとつに統一するのはたぶん無理だろう。
ぐちゃぐちゃした社会のなかで柔らかみを出し、価値観の相違を知るときに必要なのは一人ひとりの「寛容さ」がとても大事だ。

私は子どもたちが生きやすい社会を創るために自分のできることをしたいと思っている。
とはいえ、できることはとても小さい。私は多くの人に影響力を与えられるようなリーダーでもないし、発信力もない。できることは、せいぜい私が直接接することができる半径5メートルの周囲の人たちに対して「寛容」であろうとすることくらいではないかと思う。

世界は正論やロジックだけではまわらない。
人が自ら動くのには感情が必要だ。「寛容」は感情を動かし人を動かすための土台として絶対に必要な要素だし、それは個人では作ることはできない。人と人との関係性のなかで、当事者同士が作り出していかないといけない要素だ。
「寛容」は今流行りの「心理的安全性」にも密接に関わる言葉だと思う。

ちなみに「寛容」は別になんでもかんでも「Yes」ということではない。相手の話を聞き、背景を理解し、そのうえでそれでも「Yes」と思わないのであればはっきり「No」と言っていいと思うし、言わないといけないとも思う。
「寛容」であることと、相手と同調することは実は別モノだ。「寛容」は心のあり方の問題、相手にどう伝えるかはコミュニケーションスキルの問題。(まぁ密接にかかわってはくるけども)

不寛容は寛容できない…

「寛容」を大事にしている私だが、ただそんな私でも、受け入れられないことがある。
たぶんそのひとつが「不寛容な発言をしている人」だ。

自分の視点が正であると信じるのは大いに結構なことだと思う。
が、
自分の視点が正=他者の視点が誤
ではない。
その視野の狭さに気付けず、排他的な発言をしている人をみると「不寛容だなぁ、いやだなぁ」と、ものすごく心がざわつく。

「寛容のパラドックス」というのがある。
寛容であろうと不寛容をも寛容すると、結果として寛容それ自体が消滅してしまうので、寛容であることを維持したいのであれば、不寛容に対しては不寛容に接しなければいけないってことらしい。

私は「不寛容」が嫌いだ。
そしてそれでいいのだ。

心がざわつくときには自分の大事な価値観がある。
「嫌い」なことを考える時間は好きではないし、「嫌い」にとらわれた状態は気持ちも下がって嫌だなぁと思っていたけど、「嫌い」のおかげで自分が大切にしていることに気付けるのであれば、「嫌い」も自分を知るためのひとつの大事なセンサーと言える。
「嫌い」も実はありがたいものなのかもしれないな、と、今回思った。

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