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『MESSIA-異聞天草四郎』考察③流雨の怒り

 サンタ・マリアを彷彿とさせる清廉な美しさと、人々を包み込む優しさをあわせもった聖母のような女性。そんな理想的な女性として描かれる流雨ですが、私が一番印象に残っているのは、怒りをこらえて、唇を噛みしめる彼女の表情です。島原の人々が尋問される中、ライブビューイングに映しだされたその表情に、私ははっとしました。怒りという感情からほど遠そうに見える彼女が、ひたすら、ただ、ひたすらにこの世界の理不尽さに怒っていた。私が初見で抱いた流雨のキャラクター像が、ゆきちゃんの演技で覆されました。

 流雨が歌う「鎮魂」の祈り。劇中では、あまり描かれませんが、流雨は常に、島原の民たちに寄り添い生きてきた女性だと思います。自分より貧しい人に、数少ない食物を分け与え、自らも畑にたち耕作をし、人々を励まし続けた。子供たちに読み書きも教えていたかもしれません。もし、焼き印を押された幼いくめが、村に戻ってきたとしたら、まっさきにその体を抱きしめたのは流雨だっただろうと思います。

 流雨が、自分たちの信仰を踏みにじり、人々を苦しめる松倉勝家に、どれだけ怒りを抱いたとしても、キリスト教の信仰の枠の中では、彼女はその怒りや現実を変えたいという願いを表に出すことはできません。というよりは、無自覚だったかもしれません。

 彼女の信仰では、神の試練に耐え、いつか訪れる「ハライソ」で幸せになることが、何よりも救いなのです。そんな状況の中で、彼女はみんなを救うため、自分を犠牲にして、松倉のもとへ行くことを決意してしまいます。

 けれど、四郎は、そうした「自己犠牲」をまっこうから否定します。四郎の思想は一貫して、「生きること」にあります。「来世の救済」ではなく、自ら、現実の幸せを勝ちとろうと立ち上がる。キリスト教の信仰とは相いれない、この四郎の精神に、流雨は次第に共鳴していったのだと思います。

 それは、何よりも、彼女がこの社会に怒っていたから。この現実を変えたいと思っていたから。四郎によって、その意識下にあった願いが顕在化し、彼女は解放されます。彼女は、四郎の考えを受け入れることで、信仰の枠の外に出ることで、息ができるようになった。彼女の感情を表出し、立ち上がることができたのだと思います。

 四郎が、人々と立ち上がり、松倉勝家を撤退させたその晩。四郎と流雨は、恋を自覚します。純粋で、どこまでもまっすぐな二人だからこそ、自然と共振したのだろうと思います。思わず口づけをしたその姿は、清らかで、神聖な雰囲気もまとっていました。社会を変えられると、未来への希望を胸に抱いていた二人のことを考えると、切なさが増します。

 人々の未来を背負い、人々を引っ張った四郎と流雨。どこまでもまっすくで、清らかだった二人ですが、彼らが始めて業を背負うシーンがあります。四郎が、地下牢に捕らえられたリノに話しかける場面です。

 四郎は、「自分の首を差し出すことはたやすいが、みなが改宗に応じるはずはない。」として、松平の条件を呑まずに、負けることが予想される戦いを続けることを決意します。四郎は、みんなの生命よりも、その信仰を優先したのです。そして、四郎とリノ、その二人を見守っていた流雨だけが、みんなに助かるチャンスがあったという、この秘密を共有します。

 リノに、「さあ、早く行け。」と叫んだ四郎の声には、「お前は生きろ。」という、悲痛な、けれど力強い願いが滲んでいました。確かに、四郎は、みんなが死ぬ可能性が高いことを自覚していたのです。明日海さんの、この叫びに私はぐわっと胸をつかまれました。

 けれど、一方でこのシーンに違和感も抱きました。四郎は、戦いの行く末を知りつつもみんなを先導するという業を背負うことになるのですが、この流れだと、自分勝手にみんなを死へと導いてしまう感じが、なんとなくしてしまったのです。それは、キリスト教をみんなと同じように信仰していないはずの四郎が信仰を何よりも優先したから、また、独りでその決断をしてしまったからだと思います。

 四郎だったら、信仰を守ることよりも、まずはみんなが助かることを選択したのではないでしょうか。彼にとっては、何よりもみんなが「生きる」ことが重要です。けれど、自分の生命は、みんなのためであれば、かえりみないと思います。海で一度、失いかけた命。みんなのために死ぬことに、意味を見出し、彼はリノに自分の首を持ってくよう頼む気がします。

 劇中では、二人を見守るだけだった流雨ですが、私はこのシーンに流雨がもっと関わってもよかったのではないかなと思います。

 例えば、四郎が松倉のところに身を投じようとした流雨をとめたように、流雨が、首を差し出そうとする四郎をくいとめる。

 この戦いが退けないものであるのは、何よりも、ずっとキリスト教を信仰してきた流雨だったと思うのです。流雨が、信仰の自由のために、私たちは戦わないといけないというのであれば、四郎もその意思を尊重したと思います。

 流雨の、この戦いたいという気持ちは、他の島原・天草の人たちの共通した意志であっただろうと思います。私は、甚兵衛さんや小佐衛門さんも、この3人の決断を密かに知っていたと思うのです。

 この地下牢のシーンでは、大きな十字架が常にそびえたっています。四郎が、この十字架を振り返るシーンがあるように、四郎が神の存在を否定したとしても、人の意思を超えた「神」の存在は、やはり劇中で描かれていたと思います。

 社会を変えるために立ち上がった人々が、それでも死へと向かわざるを得ない理不尽さ。その彼らの生き様を、人々の営みを、人智を超えた視点で、やはり神は見守っているのだと思います。(この十字架は、四郎と流雨、リノの背負ってしまった業を示唆しているようにも見えます…。)

 黄金に輝く世界。亡くなった人々が笑いあい、その中心で四郎と流雨が手を取り合う。リノの描いた絵画なのか、彼の心象風景なのか、それとも「ハライソ」の世界なのか。

 その美しい、幸福に包まれた「神の国」で、四郎は、信仰の自由が守られ、迫害のない世界に暮らす私たちの時代を見渡している。自分たちが礎となったその未来を見通している。そんな気がします。

 その表情は、おだやかですが、私には一瞬、哀しそうな、悔しそうな表情が滲んだようにみえました。やはり、四郎は、現実に、彼らが幸せに暮らす世界を築きたかったのだと思います。

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