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『MESSIA-異聞天草四郎』考察①-宿命づけられた英雄

 暗闇から現れた青年の、静謐な後ろ姿。海賊の棟梁であり、後に「天草四郎」と名乗る彼は、自身が辿る運命を知らず、ただ海を見つめていました。神聖な空気感さえまとったその背中に、私は惹きこまれました。そして、劇場に響くオラショのコーラスに誘われ、私は異国情緒漂う長崎の浜辺に降り立ったのです。

 熾烈を極めた圧政に立ち向かった、島原・天草の人々の一揆。『MESSIA-異聞天草四郎』は、虐げられた者たちが立ち上がる姿を真正面から扱っています。私も思わず手を握ってしまうような瞬間がたくさんありました。

 ちなつさん演じる松倉さんが、刀で血をぬぐう仕草にうわってなり、顔をぐしゃぐしゃにして四郎を囲む島原・天草の人々のパワーに圧倒され、ものすごいスピードの殺陣と舞台のあちこちで人々が亡くなっていく様子、名もなき人々があっけなく散っていく様子に言葉を失いました。

 けれど、この作品を観終わったあとに、なんとなく感じたもやもやがありました。この作品で描かれた四郎のヒーロー像や信仰の描き方、リノの救い方にちょっと違和感も感じたのです。

 四郎が島原・天草の人たちに説いた「神はあなたたちの内にある。」という言葉。この考えが初見では上手く受け止められず、どういうことだろうと自分の中でかみ砕きたいと思いました。

 また、幕府の最高権威である家綱が、キリシタンの信仰を認め、リノに絵を描くことを許すというラスト。理想的な政治像を示すという意味では綺麗でいい着地なのかなと思いつつ、もう少し違うテイストの着地点を私なりに模索したいと感じました。

 今回は、四郎を中心に登場人物の背景を妄想しながら、私が感じたこの違和感を解きほぐしていけたらと思います。

 完全無欠の英雄であることを宿命づけられた青年ーこれは、明日海さん演じる四郎に抱いた私の印象です。

 先天的なカリスマ性をもち、曇りひとつないまっすぐな純粋な心の持ち主。

 夜叉王丸として、荒くれものを率いる海賊であっても、快楽で人を弄ぶようなことは決してしない。宝を求めて海を駆け回り、様々な未知の土地を訪れる。同じような境遇の仲間と奔放に生きることが、彼の居場所だったのだろうと思います。

 また、リーダーとしての先天的な器。海賊を率いた夜叉王丸が、カリスマ性を発揮して天草四郎となって天草の民たちを導く姿は、明日海さんが花組を率いる姿と重なって胸が熱くなりました。

 ただ、この作品では、四郎の背景や過去がそれほど描かれていないため、四郎に感情移入がしにくいところがややあります。

 部外者だった「天草四郎」が、島原・天草の一揆を導くようになる。そのきっかけの一つは、島原・天草の人たちの信仰に触れたことだと思うのですが、四郎はキリスト教に改宗するまでに至りません。人々に苦難を強いる神に疑問さえ抱きます。それでも、みんなの信仰を守るために一揆を率い、「後世に彼らが生きたことを伝えてほしい。」と作品のメッセージを代弁する。

 私が天草四郎に抱いた印象は、しかれたレールを、迷いなくまっすぐ突き進んだ「英雄」でした。「夜叉王丸」から「天草四郎」へとなっても、この青年の本質は一貫しています。天性のカリスマ性とまっすぐな心をあわせもった彼は、完璧なヒーローなのです。神を否定した四郎にとって皮肉なことですが、冒頭の彼の神聖な雰囲気はまさに「神に選ばれし者」だったと思います。

 「天草四郎」という人物に、奥行きを与え作品をひっぱった明日海さん。明日海さんが、作品の中で表出した感情や余白に、私の想像力は刺激されてしまいました。作品で描かれない四郎の過去はどんなものだったのだろう。四郎はなぜ、海賊になったのだろう。そんなことをつらつら考えているうちに、四郎は「捨て子」だったのではないか、そんな考えにたどり着きました。

 家族に捨てられ、同じような境遇の同年代の少年たちと徒党を組んだ結果、海賊へと流れついた。不動丸や多動丸とじゃれあい、宝に目を輝かす姿からは、根は純粋な野性的な青年というイメージがぴったりです。明日海さん演じる四郎は、圧倒的に陽の雰囲気を持っています。

 もし、四郎が殺戮もいとわない冷酷な青年として表現されたのであれば、天草に流れ着いてキリスト教の教えに触れ、改宗し人々を導くといった別のパターンの物語も可能だったとは思います。「弱きものこそ神は救う」というメッセージ性も強く、私たちも四郎の変化に感情移入しやすかったかもしれません。

 でも、この作品における四郎の本質はまったく変わりません。徹底的に四郎は、「英雄」なのです。「神は現実を変えない。自分たちが立ち上がらないと、現実は変えられない。」というこの作品のメッセージを浮きだたせるためには、四郎を完全に改宗させるわけにはいかなかったのかなとも思います。

 私が、四郎が捨て子だったのではないかと思ったもう一つの理由は、益田甚兵衛さんとの関係です。四郎の人生において、「父」ができたことは何よりもかけがえのないことだったのだろうと思わずにはいられないのです。

 口を閉ざし、何も語らない四郎を、「今日から私の息子だ。」と、あたたかく大きく包み込む甚兵衛さん。思わずうなずく四郎の驚いた表情。また、「神はいないのかもしれない。」と、震えた声で信仰への疑問を口に出す甚兵衛さんに、「俺たちの手でハライソを作ろう」と呼びかける四郎。四郎が甚兵衛さんの手を握るその強さと、甚兵衛さんの目から流れ出た大粒の涙。

 四郎と甚兵衛さんが、交わるシーンはそれほど多くないけれど、明日海さんと一樹さんのお芝居はとても濃くて、舞台で描かれない二人の絆に思いを馳せたくなります。

 大切な仲間を失い、一人生き残った夜叉王丸。なぜ、自分だけが生き残ったのか、なぜ、仲間が死ななければいけなかったのか。浜辺に流れついたとき、その理不尽さに彼は戸惑い、心を閉ざしたに違いありません。

 その心の傷をつなぎ、自分の生きる意味について考えるよう促したのは甚兵衛さんだったと思うのです。甚兵衛さんは、傷ついた夜叉王丸を息子として、問答無用に受け入れた。キリスト教の隣人愛の教えを実践していた甚兵衛さんだからこそ、罪深い彼の存在を認めてあげることができた。

 なぜ自分だけが生き残ったのか、なぜ仲間たちは死ななければいけなかったのか、四郎は甚兵衛さんにその思いをぶつけ、甚兵衛さんは静かに四郎に信仰の考え方を示したのではないでしょうか。

「お前が生かされたことには何か理由がある。その意味を考え、周りの人に愛をさずけなさい。」

 そんな言葉をかけてあげたのではないかなと思うのです。本能的に、野犬のように生きてきた四郎に、理性を芽生えさせたのは、甚兵衛さんな気がします。四郎が島原・天草の人々と運命を共にすること、彼らを導くことを決めたのは、甚兵衛さんとの出会い、そして守るべき自分の居場所ができたことが大きかったと思います。

 ここで、天草・島原の人々が信仰する「キリスト教」は四郎にどのような影響を与えたのか、立ち止まって考えてみたいと思います。

 四郎は、隣人愛を実践し、自分を受け入れてくれた天草・島原の住民たちの人柄に惹かれました。また、彼らが信仰ゆえに嗜虐され、松倉の圧政に困窮している現実に激しく憤ります。そして、彼らの信じる信仰に疑問を感じるのです。四郎は、「神が与える試練を耐えしのべば、天国(ハライソ)に行ける。」という来世救済の信仰を否定します。救われるべき善良な人々を苦しめる神の存在を否定し、人々の内に神(現実を変える力)はあると主張します。

 人格的な唯一神を否定する四郎の考えは、キリスト教にとっては、受け入れがたいものだろうと思います。また、戦うこと自体も、キリスト教の考え方にそぐわないところがあります。

 現に、リノは、「我らの手でハライソを作ろう」という四郎の呼びかけに応えることができず、十字架を切り、その場を離れています。けれど、島原・天草の人々は、四郎の考えを自らの信仰に取り入れ、「自分たちの手で現実を変える」ために、戦うことを決意します。四郎は、島原・天草の人々と、キリスト教から派生した新しい信仰を作り上げたと言えますが、四郎自身はキリスト教へ改宗していないのです。

 それでは、リノが信仰していた「キリスト教」はどのような宗教だったのでしょうか。ちょっと長くなってしまいそうなので、次の記事では、作品についての知識を整理しながら、リノの信仰とその救いについて考えていきたいと思います。

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