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小説 「僕と彼らの裏話」 18

18.先生の「愛弟子」

 先生宅の浴室から、バリカンの音が響いている。先生が、倉本くんの髪を刈っているのである。
 友人と旅行に行く約束をしたという彼が「それまでに髪を切りたいけれど、床屋に行くのが怖い」と、先生に相談してきたという。彼は障害特性上、慣れない人との会話だけでなく、鏡の前に座っていること自体が「難しい」のだという。
 それを聴いた先生は、迷わず「私が刈ってやるよ」と言い、ご自宅の風呂場で、彼を短パン一枚の半裸にさせ、入浴時に使う椅子に座らせて、慣れた手つきで髪を刈っている。
 すっかり見慣れてしまって、特に意識することも無くなっていたけれど、悠介さんの髪も、基本的には先生が刈っているのである。風呂場で下着姿になった彼の頭を、先生が淡々と刈り上げたら、彼は そのままシャワーを浴びる。散らばった自分の髪を片付けるのは、彼の仕事である。(先生は、もっぱらバリカンの管理を担当する。)
 基本的に「製品」と「図面」にしか興味がない彼は、自分の外見に あまり関心が無い。「散髪に金をかけるのは馬鹿馬鹿しい」とさえ言う。昔は自分で刈っていたというけれど、腕の大怪我以来、彼は先生か哲朗さんに散髪を頼んできたのである。(哲朗さんは お子さん達の散髪で慣れているので、安心して頼める人である。先生が締切前で余裕が無い時などは、嫌な顔ひとつせず切ってくれる。)
 僕には、荷が重い仕事である。


 散髪後の入浴を終えて2階に上がってきた倉本くんに会うと、素人技とは思えない、ごく自然な「スポーツ刈り」になっていた。まだ湿っている髪は、ドライヤーを使わずに放っておくつもりらしい。
「うわぁ、すっきりしたね!」
僕が声をかけると、風呂上がりの彼は ますます顔を赤くした。
「似合ってるよ」
「え、え……」
彼は、涼しくなった頸に手を当てて、目を泳がせている。
 僕は返答を強要せず、バリカンの手入れを終えて ひと休みしていた先生のところへ行って「相変わらず、お上手ですね!」と言った。
「ただ『短くする』くらいならね。そんなに難しくないよ。アタッチメントがあるから……」
「それでも、僕が刈ったら、たぶん悲惨なことになります……」
「悠介の頭で、練習すればいいよ。失敗したら、丸めればいいから」
「いや……僕、別に散髪を覚えようとは……」
 先生は、腕を組んで豪快に「はははは!」と笑ってから、台所に居る彼の頭を、改めて眺めているようだった。

 先生の予想通り、彼は「悠さんと同じ工場で働いてみたい」という思いつきを、翌日には完全に忘れていた。
 相変わらず、彼は大好きなサイを見るために足繁く動物園に通い、ちゃんと一人で帰ってくるけれど、時折、家の中で、何も見えていないかのように目線をふらふら泳がせ、もごもごと不明瞭な発音で「課長に電話する」とか「間に合わなかった」「悠さんが帰ってこない」などと独り言を言いながら、体を揺らし続けたり、同じ場所で ぐるぐる回り続けたりする。体のどこかを執拗に掻いている姿も、よく見る。そういう時に、不用意に声をかけたり、体に触れたりしたら、牙をむくかのように叫び、怒りだす時がある。「触るな!」「くたばれ!」等の暴言を吐きながら、自分の体を傷つけることもあれば、僕や先生に掴みかかることもある。
 そうなってしまうと、鎮められるのは先生だけである。彼に【安心】と【覚醒】をもたらすのが、先生の触れ方なのか、声の質や口調なのか、僕には解らないけれど、先生の手で肩に触れて、座らせ、何度も声をかけながら、背中をさするか、肩を抱いて宥めてやらないと……彼の意識は【別の世界】から帰ってこない。先生と同じことを僕がしても、彼は、意識を支配する幻覚の内容や、過去に受けた暴力に関する記憶と思われることを、一人で延々と話し続ける。それらは基本的に【殺し合い】か【死体の山】に関する話で……あまりにも惨たらしい。彼は、まるで「大量殺戮の記憶に苛まれる退役軍人」である。(彼が実際に触れてきた『死体』は鶏のものであるけれど、幻覚としては、人の遺体が視えている恐れがある。)
 先生からは「危険な状況下でなければ、好きなだけ歩かせてやってほしい」「目が合わない時の、独り言には構うな」と指示を受けている。
 悠介さんが居なくなってから、彼のその【陽性症状】と思われる病態を、目の当たりにする頻度が高くなった気がする。


 彼が、友人との旅行に出かけた日。僕は、資料室で読書中だった先生の向かい側に座り、意を決して尋ねた。
「あの……先生」
「ん?」
「倉本くんの体調に関することで……お訊きしたいことがあるのです」
「本人には訊けないような事かい?」
「彼が……『劇薬による中毒』に至った経緯というのは……事件性のあるものですか?」
「そういうことか……」
先生は、読んでいた獣医学の本を閉じた。
「端的に言えば……彼は、殺人的な労働環境から逃れるために、自らの意志で、劇薬を飲んだんだ」
限りなく【自殺企図】に近い、痛ましい過去である。
「何を、どれだけ飲んだか、私は本人から聴いたけれども……彼が、今『植物状態』でないことは……【奇跡】と言えるね」
この先生がそう言うのなら、間違いないだろう。
「先生は……彼の【心的外傷】について、何か ご存知ですか?」
「……やはり、君の着眼点は的確だね」
「とんでもないです……」
「私は……部分的には知っているよ。ただ……それを君に話すことは出来ない。『秘密は守る』と、彼に約束したから」
「そうですか……。わかりました」
 僕は話を切り上げて、立ちあがろうとしたけれど、先生が言葉を継いだ。
「彼も……君に負けず劣らず、真面目な人だから。何か【仕事】を与えてやれば、しっかり やってくれるよ」
「掃除は、得意みたいですね」
「そうだね。彼も、なかなかの綺麗好きだ。君達が休みの日……よく動いてくれる」
「良い勤務先が、見つかると良いですね」
「うん……」
 先生は時々、本人の居ない場所でこそ、彼のことを「可愛い愛弟子」と言う。僕は、今日になって、やっと その意味が解った気がする。
 彼が先生から学んでいるのは、深刻な後遺症との付き合い方や、自己管理の方法に違いない。


 その彼が、理解ある友人との旅を、心から楽しめていることを願う。


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【19.来客】
https://note.com/mokkei4486/n/nb541c0971820

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