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小説 「長い旅路」 14

14.先生の家

 2人でサイを見た後、吉岡先生は、約束どおり俺を家に連れて帰ってくれた。
 一時間以上は、電車に乗っていた気がする。

 先生の家は、駅から歩くには少し遠い、山の上にあった。家出用に まとめた荷物を背負って急な坂を登っていると、だんだん息が あがってきた。
 毎日この坂を登り下りしているのであろう先生は、平気らしい。平然と、家族構成や職業について流暢に語りながら歩く。

 坂を登りきり、先生が「ここだよ」と言った住宅の表札は「吉岡」ではなく……あの課長と同じ「真田」で、俺は言葉を失った。
「『吉岡』は、ペンネームなんだ」
 苗字が同じなのは単なる偶然であって、親族でも何でもないのだろうとは思う。
「……でも、誰も私を本名では呼ばないよ」
それは、この先生がペンネームを書いた名刺を日々 配り歩いているからだろう。

 3階建ての住宅で、1階にも いくつか部屋があるようだったが、リビングは2階らしく、まずはそこに通された。
 そこには、住込みで家事をしているのだという若い女性が居た。彼女は「藤森さん」というらしい。
 彼女は健聴者だが、病気で声が出ないらしく、筆談専用の器具を持っていた。それはタブレット端末を模したような見た目で、付属のペンで画面に文字や絵を書くことが出来る。書いたものは、ボタンを押せば一瞬で消える。難聴である俺も「同じ物が欲しい」と思った。
 彼女の字は、美しかった。書道の教室で子どもに教えられるレベルではないかと思った。
 そして、独りで地元を離れ、立派に働いている彼女が「21歳」だと知って、俺は恥ずかしくなった。俺は……28歳にもなって、母や吉岡先生、玄さんに、甘えてばかりだ。

 2階にあるリビングで、3人で静かに夕食を食べ終えた後に、先生の旦那さんが帰ってきた。1階の奥にある和室で、顔合わせをした。旦那さんの名前は「悠介さん」というそうだ。
 彼は先生より小柄だが、俺よりは体が大きい。全体的に筋肉質で、特に上半身の筋肉量が凄い。水泳選手や和太鼓奏者のような、胸と背中、そして上腕が特に発達した「逆三角形」である。長袖のジャージを着ているが、それくらいは判る。(何故か、右側だけ袖を捲っている。)
 よほど疲れているのか、両目は真っ赤で、眉間には ずっと皺が寄ったままだ。そして、右目の上には、かなり目立つ傷痕がある。眼は無事だが、その傷によって眉毛が二つに割れている。凶器を用いるほどの激しい『喧嘩』によるものか、自転車か何かに乗っていて転倒した跡であるような気がした。
 彼は、怒らせてしまったら、すごく恐い人である気がする。
「まぁ……ゆっくりしてけよ。俺は、特に何もしてやれないけど」
俺は「恐れ入ります」とだけ言って、深々と頭を下げた。
 彼が先生と何かを話している間、俺は その場を動かなかった。いつ体罰を受けるか分からない「現場」の空気感を思い出す。
 よく見ると、彼の左の袖は、途中から中身が無い。あまり左腕を動かさずに話しているが、肘くらいまでしかないように見受けられる。だが、俺は それに言及しようとは思わない。

 やがて、彼は和室の押入れの中にある引き出しから着替えを引っ張り出したら「風呂に入る」と言って、脱衣所に消えた。
 先生が「今日は、彼と2人で寝てもらう」と言い、布団を敷き始めた。
 敷き終わると「先に休んでくれていい」と言ってくれたが、俺は「もうしばらく、起きて あの絵本を読んでいたいです」と応えた。(先生が、俺が退屈しないようにと和室の床の間に積み上げてくれた、ご自身の著書である。)
 先生は「わかった。ありがとう」と言い残し、2階に上がっていってしまった。

 悠介さんも、風呂から上がったら、2階に上がってしまった。

 一時間くらい経ってから降りてきて、和室に入ってきた。帰ってきた時とは違うジャージを穿いて、上はスウェットだ。
 彼は、まずは軽く手を挙げて笑いかけてくれてから、俺に歩み寄りながら何か言ったが、よく聴こえなかった。
 だが、聞き返すのも怖い。俺は、黙って彼の眼を見ていた。
 彼は、構わず一人で話を続けながら、俺が座っているすぐ近くまで来て座った。隣でもなく、正面でもなく……何と呼ぶべきか、分からない位置である。「右斜め前」か?
「ごめんな。知らない おっさんと2人で……緊張するだろ?」
聴き取ることは出来たが、どう答えればいいのか、分からなかった。
「俺の声、聴こえるか?」
「は、はい……」
「おまえ、名前は……倉本、何だっけ?」
「かず……和真、といいます……」
「カズマ。……わかった」
その後、彼は ずっと俺を「和真」と呼んでくれて、ご自分のことは「『悠さん』て、呼んでくれればいい」と言った。普段、職場で そう呼ばれているらしい。
 悠さんは、俺個人のことは何も訊かず、俺が手にしている絵本について、語り始めた。
「それ、なぁ……。俺、初めて読んだ時、泣いたよ。まだ……諒ちゃんと結婚する前だ」
日々 激しい闘争に明け暮れているかのような見た目に反して、小学生向けの絵本を読んで泣くような優しい人で、妻である先生を「諒ちゃん」と呼んでいるのか……。
「歯磨き、したか?」
「まだ、です……」
「そうか。……こっちだ」
彼は立ち上がり、手招きしてくれた。
 俺は、絵本を床の間に戻してから、リュックを漁って眠剤を取り出した。
「おまえも、何か飲んで寝るのか」
彼も、ポケットから白い錠剤のヒートを取り出した。おそらくは、それも眠剤だ。
 2人で洗面所に行き、彼は俺の分のカップと、新品の歯ブラシを出してくれた。俺が歯ブラシを開封しているうちに、片手で器用に錠剤を一つだけヒートから押し出し、4つくらいに割ってから、水道水で飲み込んで、歯を磨き始めた。歯磨き粉のキャップを開けてから、中身を歯ブラシに付けて、再びキャップを閉めるまでの動作も、全て片手で完結させる。すごく器用な人である。
 彼も眠剤を飲んで寝ているとはいえ、一種類を一錠だけなら、きっと「軽症」だ。俺は、毎晩2種類飲んでいる。合計3錠になる。一種類だけでは、量を増やしても熟睡できない。

 和室に戻って照明を消す前に、彼が言った。
「俺、明日は仕事休みなんだ。朝から、一日家に居るから……よろしくな」
「よ、よ、よろしく、お願いします……」
ここ最近、やけに吃ってしまうが、彼は、それを嗤うような人ではなかった。
 ただ「はい、消灯〜」と言って、照明を消してくれた。
 その夜は、夢を見なかった気がする。


 翌朝。俺は朝食を食べた直後に、盛大に吐き戻した。前夜に食べた物さえ、出た気がする。そして、トイレの床を汚してしまった。
 その時、先生は出かけていた。
 悠さんと藤森さんは、まともに動けない俺を当たり前のように介抱し、汚れた場所の後片付けまでしてくれた。
 俺は、作業所で吐いて気を失った時と同じように、頭の中が【日本語】であふれ返り、平衡感覚が消え失せていた。
 前夜と同じ和室で布団に寝かされているのは感触で判るが、側には誰が居て、何を言っているのか、よく判らなかった。
 死骸置き場から救出され、救急車を待っている時の記憶で、頭が一杯だった。あの時に吸った臭気と同じ臭いが、今も自分の身体から出ている気がした。
(“倉ちゃん!……倉ちゃん!”)
 あの時と同じように、課長の声が聴こえる。


 ほとんど意識が無いまま、いつの間にか一日が終わりそうだった。自分の力で、トイレくらいは何回か行ったはずだが、ほとんど記憶に無い。
 すっかり暗くなってから、和室に吉岡先生が来てくれた。
「具合はどうだい?」
枕元に座って、声をかけてくれた。
「お粥くらいは、食べられそうかい?」
俺は、のろのろと起き上がって「今、何時ですか?」と訊いた。
「夜7時くらいかな。……お腹は空いてる?」
「僕、行けませんでした……」
「どこに?」
「現場です……」
先生は、一旦は黙り込んだが、冷静に言葉を返してくれた。
「……夢でも見たんだろう。君は今、無職なんだよ」
「無職……?」
何を言われているのか、すぐには理解できなかった。
「君は今【自由】なんだよ。ただ、私の家に泊まりに来ているだけさ」
「……僕、解雇されたんですか?」
「自分で辞めたんだろ?」
「いつ、ですか?」
「私は知らないなぁ」
俺は「体調が落ち着いたら、再び現場に出なければならない」という焦燥感と、それが叶わなかったことに対する落胆と反省を感じていたが、それは、どうやら【錯覚】だ。家で、母に「復職」の話をし続けていた頃と、同じだ。
「まずは、ごはんを食べたほうがいい」
先生は、冷静だ。
 リビングでお粥を頂く間、ずっと悠さんが俺に声をかけてくれていたが、ほとんど聴き取れなかった。
 今は、その場に居る人の声や テレビの音声より、頭の中の幻聴のほうが鮮明で、申し訳ないが悠さんの声は【言葉】として頭に入らない。幻聴の渦の中でも、はっきりと俺の耳に届くのは、吉岡先生の声だけだ。


 次の日から、先生は毎日 散歩に連れ出してくれた。歩きながら、ほとんど毎日「太陽の下を歩くことが、いかに大事か」について、先生は懇々と語った。睡眠に関するホルモンの話とか、体内時計のこと、歩くという動作による足への刺激や、股関節の血流……日によって、着眼点は少しずつ違う。この先生は、医学的なことに、とても詳しい。
 あまりにも お詳しいので、ある日、公園を散歩しながら「お医者さんだったんですか?」と訊いたら「医学研究員だったよ」と教えてくれた。
「な、な、何の研究を……?」
「んー?何と言えばいいかな……【生体脳】と言って、解るかい?」
「よく、解りません……」
「『生きている動物の脳』について、だね。実験には、ネズミか豚を使ったけれども……ヒトの認知症治療のための研究だよ」
鳥肌が立った。
 そんな経歴の人なら……「頭が良い」に決まっている。ひょっとすると、世界レベルの天才かもしれない。
「ただ、まぁ……私は、ただ研究機関に雇われていただけの【奴隷】だよ。博士号すら持っていないんだ」
「それでも……『先生』でしょう?」
「それは、私が【作家】だからさ」
いずれにせよ、俺はこの人を【先生】としか呼ばない。それが、最低限の礼儀である気がする。


 状況としては「家を出て、知人宅に転がり込んだ」はずだが、まるで【違う世界】に移り住んだかのようだった。
 ここで暮らす3人は、いきなりやってきた『精神病』の俺を、疎まない。当たり前のように話しかけてくれるし、必要に応じて筆談もしてくれる。
 俺一人のために流動食を別に用意することに一切の苦言を呈さないし、俺が吐いてばかりいたり、過去と現在を混同して支離滅裂なことを口走ったりしても、決して責めない。淡々と【今】について教えてくれる。
 寛大な先生は「体調が落ち着くまで、何日でも ここに居ればいい」とさえ言ってくれる。
 頭が上がらない。
 

 やがて、藤森さんは【新居】を見つけて独立した。「住込み」というのは、新しい住まいが決まるまでの、一時的なものであったようだ。
 彼女が寝泊まりしなくなったことで、悠さんは3階の寝室で寝る生活に戻った。
 俺は、吉岡先生に「部屋代」を納めながら、和室の間借りを続けることになった。



次のエピソード
【15.静養と回復】
https://note.com/mokkei4486/n/nf274b661b636

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