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小説 「僕と彼らの裏話」 38

38.新しい「日常」

 無事に札幌から荷物が届き、しばらくは その開梱に追われた。
 彼女が寝室以上に大事にしている「仕事部屋」も、日々着々と整理されていく。(仕事机や本棚、パソコン等は、札幌の家と ほぼ同じ配置である。)
 僕らは2人とも引越しのために休暇を取ったのだけれど、彼女は今も札幌の会社に在籍し、当分は従来通りのテレワークを続ける予定だという。
 休み明けに向けて、最優先でインターネット環境が整備された。

 転入および婚姻の手続きも無事に完了し、僕らは いよいよ「夫婦」になった。初婚の僕は浮き足立ってやまないのだけれど、再婚の彼女は至って冷静だ。連日、新居内の整理に加えて、改姓後の煩雑な手続きを淡々と進めていく。新しい銀行口座も開設したようだ。
 僕のほうは、新しい車で走り回ることが楽しくて堪らず、連日、大型スーパーやホームセンターを廻り、自分好みの カー用品を買い揃え、彼女が所望した食材やビールを大量に買い込んだ。特にビールは彼女にとって「必需品」なので、冷蔵庫の最上段に常時ストックしてある。(僕が不在の時には取り出せない位置に、あえて入れてある。至極ささやかな『依存症 防止策』だ。)


 2人で一緒に何かしらの映画を観ながら夕食を摂るのが、日課になりつつあった。食べ始めると同時に再生し、映画が終わるまでは食器を台所の流しに放置する。
 彼女は、ほとんど毎日 晩酌をするけれど、僕は、薬との兼ね合いがあるので毎回 付き合えるわけではない。(むしろ、僕はアルコールを飲むべきではない。)
 酒を飲んだ日は、熟睡することを諦めなければならない。


 この日も、僕らはアニメ映画を観ながら食事をした。食べ終えたら僕が2人分の食器を下げ、流しに置いて水を張る。彼女は その間、映画を「一時停止」にして待ってくれる。
 僕が再び着席したら、彼女がリモコンの再生ボタンを押し、映画が再び流れ出す。
 食事をしながら観られるようにと、食卓の近くにテレビを置いてある。いつもテレビ画面のほうを向いて2人で横並びに座り、4人用の食卓を広々と使っている。
 我が家の広いリビングには、もう1台小さめのテレビがあって、そちらは「ゲーム用」である。2人でソファーに座りながらプレイ出来るように設置してある。
 彼女は、本格的に「eスポーツ」を嗜む人で、何で勝負しても、僕は基本的に負けっぱなしだ。「ゲームで勝負しよう」と言い出したのは自分なのに……情けない。


 先生が遠方に出かけているために僕はハウスキーパーの仕事を休み、その間の「補償」として町工場で勤務していることを、彼女にも伝えてある。
 彼女は、先生とは連絡を取り合っていないという。

 硬い場所に置くと着信時に うるさいので、あえてソファーの上に放置していたスマートフォンが、バイブレーションを伴って鳴り出した。電話だ。食卓に ついていた僕は、速やかに確認しに行く。
「先生からだ!」
僕は脊髄反射的に退室し、廊下で応対した。
「はい、坂元です」
「やぁやぁ。ご結婚おめでとう!」
「恐れ入ります……!」
営業職だった頃と同じように、スマートフォンを耳に押し当てたまま 頭を下げる。
「千秋さんも、ご在宅かな?」
「居ますよ。替わりましょうか?」
「いや……用があるのは君に、だ」
「はい、何でしょう?」
「悠介が退院したんだ」
「……おめでとうございます!」
今回の入院は、随分と長かった。
「その後、体調は如何ですか?」
「うーむ。……一時のことを思えば、随分 回復したよ。ちゃんと自分で箸を持って固形食を食べるし、歩くようにもなった。
 けれども……1日20時間くらいは寝てるなぁ」
僕が返答に困っていると、先生は「まるで、コアラか老犬だよ」と笑った。(コアラの睡眠時間は、約18〜20時間である。老犬の睡眠時間というのも、たぶん同じくらいだ。)
「発話は……ありますか?」
「ほとんど無いねぇ。テレビや漫画を見て、笑ったり、泣いたりはするけれども。……他者に向けた『意思表示』というものを、ほとんどしなくなってしまった」
「以前のような【緘動かんどう】でしょうか?」
「そうかもしれない。……画像診断としては『どこも悪くない』んだ。脳も、心臓も……。心電図だって、悪くない」
 5年以上前から双極性障害に悩まされてきた彼は、【躁】の状態だと限界まで がむしゃらに働くか、些細な事で激昂して暴れてばかりいるけれど、【うつ】の状態に転じると、過去の言動に対する【後悔】に心を囚われていき、自責的な言葉ばかり口に出すようになる。更に酷くなると、やがて動く・話すということが、ほとんど無くなる。
 過去の出来事に囚われ始めると、健康かつ無知だった頃の ご自分が、許せなくなってしまうのだという。彼の場合、過去の「言動」に対する強い【後悔】や【戒め】の気持ちが、緘黙かんもく緘動かんどうという形で現れる。かつてのように他者を傷つけまいとして「何も言ってはいけない」とか「何もしてはいけない」という強迫観念に囚われていき、自発的な言動が、皆無に等しくなっていく。一日の大半を、横になって涙を流しながら過ごすことになる。トイレに行くくらいは自発的にするけれど、飲食や外出は、誰かが促さない限り しなくなってしまう。ゲームも、読書も、何もしない。本当に「動かない」……そんな彼を、僕は以前にも目の当たりにしたことがある。
 しかし、何かしらの「きっかけ」があれば、再び心に火が灯り、忠義と使命感に燃える、熱い【職人】に戻ることが出来る。
 悪い波もあれば、良い波もある。
 待てば、必ず……良い波は来る。

 先生が彼の体調について詳しく語るのを聴きながら、僕は、過去に見た彼の様子を思い返していた。
 そして、今後の彼の「介護」について、素人なりに考えた。そう遠くないうちに彼の障害等級は変わるだろうし、今は独りで風呂に入れないという彼を、僕が介助することも、今後あるかもしれない。
 僕は、福祉に関する資格は何ひとつ持っていない。しかし、彼の配偶者である先生は、毎日、資格も報酬も関係無く、彼の身辺の世話をしている。
 僕は……単なる「同性の知人」として、彼と一緒に入浴することは、一向に構わない。先生から指示があれば、そして、彼が不快でないなら……僕は引き受ける。哲朗さんと銭湯に行くのと、同じだ。
「……まだ、しばらく そちらで療養されますか?」
「私としては……一日も早く、連れて帰ってやりたいんだ。慣れない土地で、心細いだろうから……」
そのためには、12時間近い移動に耐えうる体力を、取り戻さなければならない。
「帰ってから、君の作るものを食べて、見知った顔に逢えれば……そのうち元気になるだろう」
「……僕の妻も『先生の旦那さん』に逢いたがっております」
「そうかい?……嬉しいね」
先生の笑う顔が、目に浮かぶようである。
「悠介は”面喰い”だからなぁ……千秋さんに逢えたら、喜ぶだろう」
 僕としても、彼女は自慢の妻である。


 電話を切ってリビングに戻ると、彼女がアニメ映画を止めたままスマートフォンで何かを観ていた。ビールの350ml缶を2本空けて、すっかり「出来上がっている」感じだ。そして、どこから出してきたのか、濃厚なチーズ味のポテトチップスを『パーティー開け』して、箸で食べている。
「遅い!」
「……ごめんなさい」
「もう1本、出して!」
「よく飲むなぁ」
健康面の心配もあるけれど、僕にとってビールというものは「高級品」だ。水のように飲まれては堪らない。
 今回は素直に もう1本出したけれど、僕は「これで終わりにしなよ」と忠告した。
「良いの!私はもう、教員を辞めたから!!……自由に生きるの!!」
そう言って、缶を受け取るなりプシュッと音を出して飲み口を開け、豪快に中身を飲んでいく彼女の隣に、僕は そっと座る。
「確かに……【自由】は、素晴らしいことだよ」
 映画が、再び動き出す。クライマックスとなるバトルシーンである。特別なパワーを持った主人公のヒーローが、大量破壊兵器を操る敵キャラとの「一騎打ち」に挑む。
 その激しい攻防を観ながら、酒に酔っている彼女は大いに笑い、時に叫ぶ。
 彼女は、凄惨な事故で体型こそ変わってしまったけれど、今は すこぶる元気だ。心身共に、僕よりずっと頼もしい。

 映画が終わった後、僕は彼女が凹ませた空き缶や、空いた菓子の袋を片付けるため立ち上がる。
「僕、明日から仕事なんだ。午後からなんだけど……」
「わかったー」
彼女は、ずっとテレビ画面ばかり見ている。
「千秋は、仕事いつから?」
「来週かな」
「明日、留守番よろしくね」
「はいよー」

 僕は、いそいそとゴミを回収し、それらを台所で捨てる。洗うべきものは洗う。
 黙々と手を動かしながら、心の中で、彼に語りかける。
(いつでも、帰ってきてください。みんな待ってます……)

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 明日から、また頑張ろう。


次のエピソード
【39.暗夜が迫る】
https://note.com/mokkei4486/n/n865e19afcf84

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