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小説 「ノスタルジア」 10

10.新たな局面


 誓いを新たにした悠介は、より一層仕事を頑張るようになりました。

 とある金曜日。その日は珍しく直美が風邪で欠勤しましたが、悠介達の【勉強会】は予定通り行われていました。
 そして、この日は悠介が初めて自前の「能動義手」を持って来ました。それは何ヵ月もかけて貯金して、やっと手に入れたのです。(そして、採寸や試着、練習のために専門の工房へ通うのも、なかなか大変でした。休日は「とにかく家で寝ていたい」悠介にとって、そこが予定で埋まることは ちょっとした苦痛でした。)
 頑張って手に入れた「新装備」を、悠介は職場の人々に見せびらかしたいほど気に入っていたのですが、睦美むつみに見られたら馬鹿にされそうな気がしたので、日中はずっとロッカーに隠していました。本来の終業時間を過ぎてから、やっと取り出して現場に持ってきたのです。
 それは金属がむき出しで、指が3本の、ロボットの手のような形状なのですが、両肩を通すハーネスと、それらに繋がるケーブル(と呼ばれるワイヤー)によって、手先を開閉したり、手首(に該当する部分)を捻ったりできる仕組みです。要するに、肩の動きで義手を操作するのです。

 悠介はまだ独りでは着けられないということで、わたるが手伝います。本職の技師が作った義手に初めて触れた亘は、目を輝かせていました。
「凄いなぁ……!これが、こう来て……ここが動くのか……!いやぁ、凄い!」
装着が終わっても、亘は観察をやめません。特に、ハーネスやケーブルの繋ぎ方が気になるようで、なかなか手を離しません。
 常務が、少し不安そうに言いました。
「亘ちゃん。まだ、そっちの道には転身しないでおくれよ?」
「いやいや。転身は、しませんよ」
義肢作りを生業とするには、専門の資格が必要です。亘は、今からそこまでしようとは考えていませんでした。
 とはいえ、彼はパラアスリートのメカニックになりたかった頃の気持ちを思い出し、胸を高鳴らせていました。いつか、自分でも、これに似た物を、再び悠介のために作ってやりたい……という意欲が湧き起こるのを、隠しきれませんでした。悠介に「帰る前に義手の写真を撮らせてくれ」と頼んだのです。
 悠介は、かなり驚きはしましたが、亘の頼みだからこそ承諾しました。


 義手の観察が一段落すると、誰が何を造るか決める『作成会議』が始まりました。現場内の、日中には天井クレーンが動き回っている少し広めの空間に、3人で車座になって図面を広げます。納期が近い品目を確認し、急ぎの品は今日のうちに少しでも加工を進めたいところです。また、今の悠介にできる作業・加工について、この時に話し合います。
「さてさて。ご自慢の愛機の『初陣』だからねぇ……何をしてもらおうか」
常務が、どこからか拾ってきた鉛筆のお尻に付いた消しゴムで、図面のさまざまな箇所を突つきながら考えています。亘と悠介は、ひとまず黙って待機します。

 すると、オフィスカジュアルの上から現場用の上着を羽織った内藤が、白い紙の束を持って現れました。その紙は、FAXで送られてきた「追加注文」です。社内の職人達は皆それを知っているので、彼が近寄ってくると嫌な顔をするのですが、常務と亘だけは違いました。他の皆とは逆で、目を輝かせて歓迎するのです。今もそうです。
「嬉しそうっすね、常務」
悠介が声をかけると、常務は声をあげて笑いました。
「そりゃあ、そうさ。彼は、僕らに追加報酬をもたらしてくれる『金運の神様』だよ!」
 神様と呼んでもらえた内藤は、まるで俳優かホストの宣材写真のようなポーズを得意げに決めていましたが、それはほんの数秒でした。すぐにいつもの雰囲気に戻って、悠介に声をかけました。
「何だよ松尾。かっちょいいのしてるじゃねえか。昼間は、どこにしまってたんだ」
「いや、これは現場用なんで……」
「ほーぅ。いよいよ現場に復帰か?……そうなると、製図はまた俺の仕事か」
内藤は、うっすらと不精ひげが生えている顎を撫でながら ため息をつきました。
 亘は、座ったまま手を差し出しました。
「内藤くん。図面もらえるかい?」
「あ、はい。どうぞ」
受け取った亘は、何枚かペラペラとめくってから呟きました。
「あぁ、例の電器屋さんか」
常務も、その一言で全てを理解したようでした。しかし、悠介だけは取り残されています。それを察した亘は、丁寧な解説を始めました。
「松くん、二槽式洗濯機って使ったことある?」
「うちの高校にありましたよ」
「やっぱり、ある所にはあるよねぇ」
高校時代、水泳部員だった悠介は、1年生のうちは毎日のようにその洗濯機で全員分の水着を洗っていたのでした。
「二槽式洗濯機って、今でも意外に使われてるんだよ。部品さえ ちゃんと交換してやれば、20年以上使えるから……」
「マジすか」
「ただ、メーカーとしては部品の保有って5〜6年しかしないから……『部品が手に入らなくて、修理ができません』ってなっちゃうパターンがほとんどなんだけど。ここの電器屋さんは、同じ洗濯機を使い続けたい人のために『純正と同じ形状の部品を造ってくれ!』って、毎年うちに注文してくるんだ」
「ありがたい店っすね」
Sí.スィー
突然、スペイン語と思われる相槌が返ってきて、悠介は驚きました。しかし、それが日本語でいうところの「うん」とか「そうだね」にあたる言葉であることは、なんとなく分かりました。
 亘は、再び内藤の顔を見上げました。
「……これ、ウォーターのほうが速いんじゃない?」
「向こうで断られたので、こちらに持参した次第でして」
内藤は、何故か欧米式の所作でお辞儀をしました。
「まったく……。相変わらずだな」
頭をバリバリ掻いている亘に、悠介が尋ねます。
「亘さん。ウォーターって、何すか?」
「え、松くん知らない?ウォータージェット」
「この会社に、そんなもん有るんすか!?」
「有るよ。別棟べつむねに……」
悠介は、事務所がある建物と、今 自分達が居る建物、そして練成が行われる建物の、3つしか知りません。
 悠介の頭の上に?マークが並んでいるように思えた常務が、内藤に頼みました。
「内藤ちゃん。せっかくだから、全棟を見せてあげてよ」
「マジすか。……分かりました」



 電器屋さんに卸すゴムパッキンは亘達に任せ、悠介は内藤と共に「社会見学ツアー」に出かけることになりました。せっかくの能動義手の出番が今日は無くなりそうで、悠介は少しだけ不満でしたが……これも、大事な勉強です。何より、常務からの指示には逆らえません。

 毎日、悠介が製図をしている事務所の向かいに、亘達が居る「機械場きかいば」があり、その隣に、睦美が異動した「練成場れんせいじょう」があります。
 内藤は、悠介を連れて機械場を出た後、練成場とは反対の方向へ歩いていきます。そちらは、ごく普通の住宅街が続きます。悠介は、少し後ろを歩きながら訊きました。
「なんで、こんなに遠いんすか?」
「あぁ。昔、倒産した同業者の設備を、うちが買い取ったんだ」
全く知りませんでした。

 住宅街の中、とある角を曲がると、突然「町工場らしい」外観の建物が現れました。平屋建てでありながら天井が高く、外壁はトタン板のように波打っています。
「ここが、ウォーターの稼働場所だ」
ありふれた焦茶色のドアの横にある、あまり目立たない金属製の看板には、確かに自社の名前が書いてあります。
 ウォータージェットという機械は、様々な素材を、刃物ではなく高圧の水によって切削するものです。カッティングプロッターには適さない厚手の材料でも、非常に繊細かつ緻密に加工できるため、オーダーメイドの品を造るには非常に便利です。しかし、扱うには3Dで製図をする技術が必要で、それは悠介にとって未知の領域でした。
「覗くだけにしろよ。声かけると、面倒だから」
「うぃっす」
 言われた通り、内藤が開けたドアの小さな隙間から中を覗き込むと、そこは全くの『別世界』でした。湯気で曇った浴場のような室内に、巨大な機械が1台だけ鎮座し、奥にある操作パネル近くの床には図面と材料が入った箱が所狭しと並んでいます。機械の轟音が響く中、2人の男性社員が床にある箱を指さしながら、何やら言い争っている様子です。しかし、何を話しているのか、まったく聴き取れません。
 内藤は、黙って扉を閉めました。悠介は、率直な疑問を口にしました。
「あの人達……外国の人すか?」
「鹿児島の人だ」
まるで外国語のように思えた言葉は、薩摩弁だったようです。
「ここは、基本的に揉めてる。あまり関わらないほうがいい」
「は、はい……」

「次は『量産課』を見に行くぞ」
「うぃっす」
 そちらは、もっと遠い場所にありました。複数回、信号待ちをして横断歩道を渡りました。おそらく、運送業者が集配に来る時も、直接こちらに来るでしょう。
 内藤が「量産課」と呼んだ建物は、見るからに「以前は他社のものでした」という感じがしました。外壁の色や形状が、他とは全く違います。そして、かつては事務所であったはずの建物が真横にあり、そこが今や倉庫と化しているのが、ガラスの扉から見えました。机や椅子が撤去された後に、大量の梱包資材が持ち込まれた様子です。
 2人はシャッターが開け放たれた材料の搬入口から、やはりこっそりと中を覗きます。材料置き場の奥の広々とした空間に並んでいたのは、コンピューターによる形状描画や数値制御が可能な「NC旋盤」という機械でした。それは亘と常務が毎日使っている手動の旋盤(汎用旋盤)よりも、ずっと複雑な形、あるいは大きな製品を、自動切削で大量に造れる機械です。メーカーや年式によって、扉は有ったり無かったりするのですが、基本的には引き戸が付いていて、その中で切削が行われます。そのため人身事故の危険性が低く、1人の職人が複数台を同時に稼働させて加工を進めることも出来ます。
「う、うちに自動機なんて有ったんすか!?」
「あるぞー。古い型だけどな」
黙々と作業に勤しむ職人達は、内藤のことを睨むかのようにチラチラと見てきます。側に悠介が居るというのも滅多にないことなので、気になるようです。
「……俺の、嫌われぶりが分かるだろ?」
「で、でも、追加注文を受ければ、成果報酬になるんすよね?」
「いや。残業代とは別に『成果報酬』なんてものが出るのは、手動機の担当者だけだ」
「そうなんすか!?」
「当たり前だろ。自動機が有利すぎる」
それは、確かにそうです。
(だから、追加のFAXがウザがられるんだ……)
そんなものが来ても、忙しくなるばかりで手取りはさほど増えないのです。


 そろそろ機械場に戻れるだろうと思って歩き始めた悠介に、内藤がやや苛立たしげに言いました。
「すまねぇ。煙草を吸わせてくれ。もう我慢できん」
「うぃっす」
悠介の返事を聞く前に、内藤は既に上着のポケットから煙草の箱とライターを取り出していました。
 量産課の入り口付近にも、自販機と喫煙所があります。内藤はそこにある縦長の四角い灰皿の前に立ち、素早く煙草を咥えて火を点けました。そして何回か煙を吸うと、よほど美味い酒でも飲んだかのように、満足げな ため息を漏らしました。
「おまえも吸うんだっけか?」
「あ、はい……」
「一本やろうか?」
「良いんすか!?」
内藤は「ほぃ」と言いながら、中の1本が長く突き出した状態にして箱を差し出しました。悠介は学生のように「あざっす!!」と言って、その1本を受け取りました。
 マスクを下げて煙草を咥えると、内藤のライターを借りて、自分で火を点けました。
「…………ふぅー」
自分が普段吸っているのとは違う銘柄ですが、これもなかなか美味しい煙です。
 2人は、まるで砂漠で水を得た旅人のような気分でした。

 互いに煙草を燻らせながら、まずは内藤が口を開きました。
「別に……陰口叩くわけじゃねえけどよ。工場長も亘さん達も、本当に最低限の事しか教えてなかったんだな」
「……俺が現場に戻れる保証、無かったからじゃないすかね?」
「それにしたって、もっと早く教えるべきだったと思うぜ。……おまえも、製造部の正社員なんだからよ」
誰もが「自分のことで精一杯」なのは、悠介も日々感じていました。それに、会社としても「可能な限り、隠しておきたい」場所や事柄というのはあるはずです。今日明かされた事など、以前の勤務先が隠していた事に比べれば……何でもありません。だからこそ、悠介は事務所から遠い設備のことを教えてもらえなかったことについて、恨んだり、悲しんだりはしていませんでした。
「でも、俺は……他の機械のこと知ったとしても、絶対に手動機を選びます」
「あんなもん、疲れるだろ?ずっと一台に付きっきりでハンドル回してさ。しかも立ちっぱなしだ」
内藤は、いかにも「理解できない」と言いたげでした。しかし、悠介には揺るぎない信念がありました。
「俺は……手動機じゃねえと、『仕事してる!』って感じがしなくて、嫌っすね」
「……お嬢と同じこと言うんだな」
「そうなんすか?」
「おぅよ。……お嬢はなぁ、手動のフライスが大好きなんだ」
「俺も、フライスが一番好きっすね。あれ一台で、本当に何でも出来るんで」
「ここにも、変わり者が居やがる……」

 立ち話をしながら、内藤は2本目を吸い始めました。悠介は一秒でも早く機械場に戻りたかったのですが、日頃から大変お世話になっている内藤さんがまだまだ煙草を吸いたいのなら、終わるまで待つしかありません。さすがに、自分まで2本目を要求するわけにはいかないので、マスクを戻して話を続けます。
「俺は、やっぱ……【手仕事】がしたいんすよ。いくつになっても」
「パソコン仕事は、あんまりか?」
「正直、好きではないっすね……。もちろん、断りはしないんすけど」
「根っからの『職人気質かたぎ』なんだなぁ。……立派なもんだ」
「立派、ではないっすよ」
「いやいやいや……。俺なんて、現場から営業に『逃げた』からな?」
「え!?」
内藤は煙草の灰を落としてから、言葉を継ぎました。
「俺はここで2社目なんだ。前のとこで技術職だったから、ここでも迷わず現場の仕事を希望したんだけどよ。…………実際に働き出したら、よく解らん発疹と、脱毛が凄くてなぁ。見すぼらしいほどに禿げた。だから全部剃って、ずっと頭にタオル巻いてた」
遠い過去の話だからか、内藤は落ち着き払っています。しかし、悠介は気が気ではありませんでした。話を聴いて、以前、睦美が内藤を「ハゲ!」と罵倒していたことを思い出し、吐き気すらしてきました。今、本人の顔を見たら殴ってしまいそうです。
 ストレスなのか、アレルギーなのか。何が原因かは分かりませんが、本当に脱毛症で悩んでいた人を、治った後にまで「ハゲ」呼ばわりして からかうなど、まともな人間のやることではありません。
「……それで、事務方に異動させてもらったら、無事に生えた。だから外回りも平然と行ける」
「よ、良かったっすね……!!」
「まぁな。……あそこで生えなかったら、辞めてたんだろうな」
内藤は、過去に思いを馳せるかのように、上空を眺めました。
 しばらくの間があってから、再び悠介に語りかけます。
「だから。あの場所が『楽しい』って言える、おまえみたいな奴は『天才』なんだぞ?」
「いや!俺、バカっすよ!?」
「頭の出来じゃねぇ。あの空気に耐えられる『身体からだ』を持ってるかどうかだ」
確かに、化学物質によって体調を崩して辞めていく人は非常に多いと、前々から聴いていました。
 しかし、何十年も続けている人が居ることも事実です。
「常務って、ここ何年目すか?」
「さぁな。35年以上だろ。俺や『鼻くそ』が生まれる前からって話だぜ?」
「マジもんの天才っすね……!」
「いや……【神】だ」
内藤は、いつも真顔で冗談を言う人です。どこまで本気なのか、測りづらいところがあります。
「そして、お嬢は【女神】だ。たぶん」
「たぶん、なんすか?」
「これから、そうなるだろうってことだ。まだ若いからな」
悠介は「なるほど」と思いました。
「それでも、この現場に入り浸って20年近くになるんだぜ?……とんでもねぇ鬼才だ」
「内藤さんは、何年目すか?」
「俺?俺は……22で入った。今34だ。だから……12年か?」
「干支が一回りしますね」
「そうだな。歳食ったよ……」
少しだけ首を傾げるような仕草をしてから、がっくりと肩を落としてみせました。
「十年戦士がゴロゴロ居るのは、良い会社だって……先生が言ってました」
悠介の言葉を聴くと、内藤は姿勢を戻しました。それから「ははは」と笑って、また煙草を咥えました。その分の煙を吐くと、また笑いだしました。
「おまえ、よくあんな虎みたいな先生と一緒に住むよな」
「先生が、俺を『拾ってくれた』んすよ」
「で、犬っころみたく可愛いがられてんのか」
少し恥ずかしいですが、決して間違いではありません。実家を抜け出して街を彷徨い、まるで野良犬のようだった悠介を、自宅に招き入れて住まわせ、信頼できる医療機関へと繋いでくれたのは先生です。そして、毎晩のように、英語で何かを囁きながら、頭や背中を優しく撫でてくれる先生が、悠介は大好きなのです。ごく稀にハグやキスをしてもらえると、まるで自分に尻尾が生えていて、それを喜びのあまりブンブン振り回しているような気分になってきます。
 悠介が何を考えているかなど知る由もない内藤は、煙草の灰を落としながら、にやにやしています。
「……へへへ。確かにおまえは可愛い」
悠介は返答に困り、更に顔を赤くしました。



 やっと機械場に帰り着きました。
 愛用の旋盤に向かっていた亘が、わざわざ機械を止めてから「おかえり、松くん!」と言い、笑顔で迎えてくれました。
「随分と遅かったね。じっくり見てきた?」
本当は煙草を吸っていた時間が一番長かったのですが、悠介は「信号に引っかかり続けた」と偽りました。
 それを聴いた亘は「そっか」と笑い、内藤も、別段何も言いませんでした。彼は、亘に悠介を託したら、すぐに機械場を去りました。

 亘は、悠介を機械場の奥にあるボール盤のところへ連れて行きました。そこには500円玉より少し大きいくらいの、半透明の黄色い円盤状の材料が、プラスチック製の箱に山盛り用意してあります。
「これの、内径をあけてほしいんだ」
そう言ってから、亘はボール盤の前に座って実演を始めました。(この会社で唯一の、座って操作する工作機械かもしれません。そして彼が腰を下ろしたのは、丸太を短く切ったものに座布団を乗せただけの、実に簡素な椅子でした。)
 そこはもう、完璧なまでに準備がしてありました。ボール盤のテーブル上には薄くて円いウレタンの板が敷かれ、その上に厚手の四角いものが2枚、4つの小さなクランプで留めてあり、四角いウレタン同士が作る角に材料を押し当てながらレバーを下げれば、ドリルが確実に材料の中心に当たるようになっています。ドリルがテーブルを傷つけないための位置合わせ・高さ合わせも、完璧です。小学生や、寝ぼけた人でも、正確に中心が狙えそうです。
「新しい手先と、形が合えば良いんだけど……」
「とりあえず、やってみます」
治具じぐが要りそうなら言ってね。すぐ作るから」
「はいッ」
悠介は気合の込もった返事をして、さきほどまで亘が座っていた席に着きました。
 亘は「初めだけ、少し見るよ」と言って、別のボール盤の前から持ってきた丸太の椅子に腰掛けました。

 亘は材料の箱と加工品の箱を、当たり前のように椅子の左側に置いたままにしていました。フライス盤と同じく、操作者の利き手がどちらであろうと、ボール盤のレバーというものは向かって右側にあるため、材料や加工物の取扱いは左手でするものです。悠介が左手を取り戻した今、自分達と同じやり方でこの作業ができるか、見守りたかったのです。
 悠介も、亘の意思を汲んだ……わけではありませんが、新しい義手で材料を拾えるか試してみました。
 拾い上げることはすぐにできましたが、テーブルの上の、狙った場所に置くのが難しいのです。何度も意図しない場所に材料が落ち、そこから右手で置き直しました。また、ドリルで穴をあけている間、材料を「しっかりと押さえておく」というのも、できなくはありませんが大変でした。肩や背中の筋肉が、だんだん痛くなってきました。
 この義手があれば、悠介は食器を洗ったり、ゴミ袋を縛ったりするのは簡単にできます。しかし、肝心の現場仕事が上手くできず、とても歯痒い思いをしました。亘の手作り治具を初めて使った時のような感動は、得られませんでした。

 亘は、何も言わずに側で見守っています。悠介は、彼に少しだけ弱音を吐きました。
「肩が、痛いっす……」
亘は「うんうん」と2回頷いてから、自身の分析結果を述べました。
「やっぱり、押さえるのにも治具があったほうが良さそうだね。あと……指先のところ、何か滑りにくい材質のカバーを付けると良いかも。指サックみたいにさ」
「あの、理科室でフラスコ挟むやつみたいにするんすか?」
悠介の思い描いている物が亘には伝わらなかったのか、彼は黙り込んでしまいました。
「……亘さん?」
「ごめん。俺、理科室で実験をしたことがない……」
「いや!こちらこそ、すいません!!」
亘の経歴を思い出した悠介は、必死に謝りました。
「いや、大丈夫。気にしないで……後で調べてみるから。練習続けて」
練習という言葉が、悠介の耳には痛いものでした。しかし、認めざるを得ません。今は、義手の動かし方を模索し、練習すべき時です。
 亘は、優しく告げます。
「時間がかかるのは、気にしなくていい。今日中に終わらせようとは思ってないから」
「……はい」

 やがて、亘は「ちょっと探し物してくる」と言って席を立ち、椅子を元の場所に戻したら、どこかに行ってしまいました。
 悠介はその後、常務が「帰ろう」と言いに来るまで黙々と練習を続けました。終える頃には、左肩は石のように硬くなり、腕を挙げられないほどの痛みに襲われていました。そうでなくとも独りでは外せないので、亘の手を借りたのですが……彼の表情を見た亘は、撮影は来週でいいと言いました。

 悠介は、今日の自分を直美に見られなくて本当に良かった……と、つくづく思いました。


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