見出し画像

小説 「吉岡奇譚」 22

22.静養

 彼女は3日間 仕事を休んで安静にしていたが、熱が下がると、次第に落ち着きを取り戻していった。
 とはいえ、私は彼女を心療内科に通わせる必要性を感じていた。「布団に入っても、朝まで ほとんど眠れない」とか「食欲が無い」「身体に力が入らない」と訴え始めたからである。
 私は、本人が望むなら、過去に悠介にしてやったようなことを、彼女にもしてやりたいと思った。

 私と悠介が精神科に、坂元くんが心療内科に、長年通っていることは、彼女も知っている。
 彼女は、私の提案を受け入れてくれた。

 親族や医療関係者ではない私は、診察室の中にまでは入れない。それでも、彼女を車で自身の通院先に連れて行き、診察が終わるまで、コンビニの駐車場に停めた車の中で時間を潰していた。好きな音楽を聴きながら本を読む時間は、まったく苦にならない。
 私が彼女に紹介したクリニックの院長は、私が大学院で勤務していた頃に知り合った人物である。当時は院生だった彼が、今では独立して開業している。
 私にとっては、非常に数少ない「信用に値する精神科医」である。

 クリニックの前で降ろしてから2時間近く経った頃、彼女が車まで戻ってきた。(待つ場所は伝えてあった。)
「お疲れ」
彼女は、助手席に座ってから、予め筆談具に書いていた【お待たせしました】という文章を見せてくれた。
 初対面の医師と複雑な話をしてきた後にしては、思いのほか、すっきりした顔をしている。抱え込んでいたものを吐き出して、心が軽くなったのなら、良いのだが……。
「手紙を渡してきたんだろ?どうだった?」
彼女は、昨日までのうちに、医師に伝えたい事柄を紙に書いていたのである。
【とりあえず、眠剤を出してもらいました】
「眠れるようになれば、かなり違ってくるからね」
【『吉岡先生の側に いられるなら大丈夫』と言われました】
「また、そんな、妙な事を……」
思わず笑った私を、彼女は不思議そうに見る。
「まぁ……私の側=岩くんの側みたいなものだからね。彼の側なら……大丈夫だよ。それは間違いない」
【岩下さんは、編集者の方ですよね?】
「本業はね。しかし……彼は『神経と精神の専門家』だ。自分が大怪我をしたのをきっかけに、医学部生並みに学んだんだ。
 私も、悠介も……坂元くんも、彼の知識と技に救われてきたんだよ」
 彼女は、返答に困っているようだった。
「さて。昼ごはんは、どうしようか……。何か、食べたいものはあるかい?」
それも、特に思いつかないのか、書きあぐねている。
 やがて、どうにか書いたのは【このコンビニで、何か買いますか?】という、なんとも遠慮がちな案だった。
「そんなもので良いのかい?」
【あまり食欲がないのです……】
「そうかい……。もちろん、無理にでも『食べなさい!』とは言わないよ」
とはいえ、私が満腹になるほどコンビニで買うと、結構な出費になってしまうので、代案を提示する。
「スーパーのお弁当でも いいかい?晩に食べる物も買ってしまいたいし……」
【はい、もちろん】
 私は車を発進させ、駐車場があると判っている大型スーパーに向かった。

 店内では私がカゴを持ち、2人で食料品を選んだ。昼食用の弁当と、夕食用の惣菜を速やかに選んで購入し、足早に店外へ出た。
 私も、坂元くんほどではないとは思うが、買い物は苦手だ。売り場に響く音楽や、他の客の話し声や笑い声が、言い知れぬ恐怖心や不安感を煽る。騒がしい店舗内に居ると、息が苦しくなるようで、あまり長くは居られない。
 ろくでもない記憶の断片が、楽曲や笑い声をきっかけに蘇り、何度でも、何年でも、私を苦しめる。そんな自分が、情けなく思えてしまう日もある。(かつての加害者集団が、私が今も苦しんでいると知ったら、やはり嗤うのだろう。あの連中には『罪悪感』など皆無だろう。)
 岩くんや坂元くんは、私を「毅い」と言って誉めてくれるが、私は、そうは思わない。
 私の精神は、リンチを受けて、すっかり叩きのめされたまま、打たれた傷から、膿んで、腐って、病んで、ずっと立ち直れずにいる。 
 この【病】は、死ぬまで治らないだろう。


 帰宅後、至って静かに、質素な昼食を摂った。テレビは つまらないから、録画した番組を適当に流す。いつもと同じように、私は映っている動物について知りうる限りの解説をし、彼女は黙って聴いている。
 彼女は、黙々と、かなり時間をかけて小さな弁当を一つ完食した。

 食後、遅めの午睡をしようかと思っていると、インターホンが鳴った。来客や配達の予定は無いし、夫から早上がりの連絡があったわけでもない。
(あの少年ではなかろうか……?)
「……やっぱりな」
画面に映っているのは、稀一少年である。今日は、一人のようだ。
 藤森ちゃんに言伝をしてから、1階まで出迎えに行ってやる。
「やぁ」
「こんにちは」
相変わらず、古びたランドセルを背負い、ボロボロの黄色い帽子を手に持っている。
「今日は一人なのかい?」
「一人やで」
なんだか、元気が無いように見える。
「……どうした?」
「ここで宿題してもいい?」
「もちろん」
 学校には、渋々でも通っているようだ。
 それでも、今日は訪ねてくる時間帯が随分と早い気がする。早退をしたのか、卒業の時期が近いためか……私には分からない。訊くつもりもない。

 彼を連れて2階に上がる。彼は、リビングで藤森ちゃんの姿を見るなり「また、知らん人 来てるわ……」と呟いた。
 彼女は「こんにちは」の手話をしてみせた。もう、すっかり習慣として身についているらしい。
「お姉ちゃん、耳聴こえへんの?」
彼は、私に訊いた。
「聴こえるよ。彼女は、声が出ないんだ」
「え?どうしたん?……病気?」
「まだ、よく判らないんだ」
「そうなん?……早う治ったら、ええなぁ」
それは彼女に言った。彼女は、笑顔で「ありがとう」と応えた。
 手話の意味が分からないであろう少年に、私が意味を伝えた。少年は「うん」とだけ言ってから、ランドセルを降ろした。
「お姉ちゃんは今日、病院に行ってきたんだ。あまり大騒ぎしないでやってくれよ」
「……わかった」
 彼は、ランドセルを開けて、筆箱やプリントを取り出す。
「お姉ちゃん、算数得意?」
「自分で解かないと、意味が無いだろ」
顔を赤くして首を横に振る藤森ちゃんをよそに、私は割り込んで正論を言った。
「僕一人で解れへんから、ここに来たんや……」
「意外に真面目なんだねぇ」
「……馬鹿にされんのが、嫌なんや」
「馬鹿にする奴が居るのかい?」
「担任」
「なんて大人げない奴だ……」
 職員室内に墨汁を撒いた一件で、彼は教員から目の敵にされているのかもしれない。いずれにせよ、担任の言動は大人げないが……。

 彼は、算数のプリントを藤森ちゃんに見せながら、どこが解らないのかを語り始めた。
 彼女は、熱心に聴いてやる。
「僕、円周率とか大嫌いやねん……」
私も、算数や数学は大嫌いだ。
 彼女は、小学6年の算数くらいなら、難なく教えられるようだ。少年の筆箱から取り出した鉛筆を手に、黙々と数字を指したり、囲んだり、うっすらと数式を書き込んだりしている。
 少年は、いかにも嫌そうに、雑な字で解答を記入していく。電卓の使用は禁じられているので、プリントの余白が筆算だらけになっていく。
 私は、少年の気が散らないように、飲み物や菓子は出さなかった。
 藤森ちゃんは「休日」なので、少年が宿題をしている間、私が米を炊いたり、茶を淹れたりする。洗濯物も取り込んでいく。

 少年は、どうにかプリント1枚分を解き終わると、藤森ちゃんに礼を言ってから、次は漢字の練習があると言って、ノートを取り出した。
(字は、綺麗なんだよな。彼……)
私も、なんとなくノートを覗き込む。
「かったるいわぁ……」
「それが終わったら、休憩したら?」
「そうしよかな」
 宿題が終わり、休憩に入った少年に、私はお茶だけを出した。
 彼は、藤森ちゃんが使う筆談具に興味津々で、あれだけ面倒くさがっていた漢字を、そちらの画面には嬉々として書き始めた。


 夕食の時間が迫ってきたので、今日も少年を施設まで送ってやることにした。
 車に乗り込んでから、少年は私に訊いた。
「お姉ちゃんは、帰らんの?」
「彼女は、住込みで働いてくれているんだよ。今日は休日だけれども」
「え……僕も雇ってほしい」
予期せぬ反応だった。
「……中学校を卒業した後なら、面接してあげるよ」
 中学校在学中に戸籍を取得できなければ、彼は高等学校等に進学することが出来ない。卒業後の就労も「履歴書不要」のアルバイト程度しか出来ないだろう。
 私は、中卒でも無戸籍でも、仕事さえ きちんと してくれるなら、雇ってやりたいと考えている。(ハウスキーパーは3人も要らないような気はするが、あの2人が今後も『辞めない』という確証は無い。)
 車が動き出してから、少年は大きな独り言のように言った。
「僕、学校なんか大嫌いや……」
「私も、子どもの頃は学校が大嫌いだったよ」
「不登校なった?」
「そんなことを許してくれる親ではなかったから……頭に10円ハゲを作って、血尿を出しながらでも、卒業まで通ったよ」
「えげつないなぁ……」
「あぁ。特に、中学校は酷かった。部活動で、何度も体罰を受けたし、それを苦に辞めた後も、ずっと『裏切り者』呼ばわりだったから……」
「僕、部活なんか絶対入りたくない。1歳か2歳しか変わらん人らに敬語で喋って、召使いみたいなこと せなあかんねやろ?……アホみたいやん」
「全ての部活動がそうではないけれども……概ね、そうだね。必修でなければ、無理に入らなくていいよ。お金もかかるし……」
「お金かかるん!?ますます、アホみたいやわ!!」
 私が彼くらいの年代だった頃は、保護者や教員からの体罰を恐れ、ただ「耐える」か「従う」ことしか出来なかった。当時の私は、非常に臆病かつ従順だった。
 部活だけは、早いうちに辞めることが出来たが、その罪悪感を卒業まで引きずり、常に不安感や焦燥感を抱きながら通学した3年間だったように思う。あまり憶えていないが……。
 中学生の頃といえば、育ての父である祖父が亡くなり、更には、母が幼い弟を連れて海外から出戻ってきた直後で、家庭内も混乱した状況だった。祖母と母は、私には見向きもせず、仕事と、幼い弟の世話に かかりきりであったように記憶している。(弟は、私より11歳下である。)
 運転しながら物思いに耽っている私に、少年が訊いた。
「……僕、これからも、おばちゃんの家に宿題しに行ってもいい?」
「もちろん。放課後なら大歓迎だよ」
「……ありがとう」
 我が家が、彼の【居場所】として選ばれたのなら、喜ばしい。


 少年を送り届けてから帰宅すると、藤森ちゃんは こたつに入ったまま、座布団を枕に寝ていた。私が帰ってきたことに気付いて起きあがろうとしたので、私は「そのままでいいよ」と告げた。
「今日は、気疲れしたろ?ゆっくり休んで」
眠くて堪らないらしく、彼女は そのまま再び目を閉じた。
 結婚前、悠介が この家で静養していた頃も、日中は こたつの中が彼の定位置だった。私が「寝室で布団に入るのは睡眠時に限定しろ」と教えたからだ。
 当時の彼は、今の藤森ちゃんと同じように、よく座布団を枕に寝転がり、毎日のように泣いていた。特に、夕方15時半〜17時頃には、決まって具合が悪くなり、ほとんど身体が動かなくなり、言葉を発しなくなっていた。その時間帯だけは、こちらの呼びかけには全く応じないことも多々あった。(緘黙や緘動、昏迷の類だと思われる。)
 夫は、今でも その時間帯には癇癪(かんしゃく)を起こしやすく、安定剤の服用が欠かせない。勤務先の人々も、彼の情動が不安定となる時間帯には、いたずらに刺激しないよう配慮してくれている。

 私も、彼女と同じように座布団を枕に こたつで寝ることにした。3階まで上がって布団を敷くのが面倒になった。
 外から聞こえてくる鳥の声や、車の音を耳に聴きながら、夕食後に描き進めたい話について、なんとなく思慮を巡らせていた。
 今作は、順調だ。描きたい父親像が はっきりしているし、自身の心的外傷とは無関係な、純然たる「空想の世界」なのだ。描いていても、苦しくない。むしろ、とても楽しくて心地よい。
 悪くない【集大成】となる気がしている。



次のエピソード
【23.展望】
https://note.com/mokkei4486/n/n0ae164e7745c

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?