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小説 「長い旅路」 23

23.生命とは

 どこをどう通って帰ったのか、全く記憶に無いが、ふと気が付くと、先生宅の玄関マットの上に座っていた。靴を履いたままだし、リュックも背負ったままだ。
 少し、頭が ふわふわする。

 ドアの鍵を閉め終えた先生に、俺は衝動的に報告した。
「今日、テレビで拓巳を見ました!」
「そうかい、そうかい……。相変わらずの『売れっ子』だねぇ……」
言葉を返しながら、先生はサンダルを脱いで玄関に上がった。
「お腹は、痛くない?」
何故、そんなことを訊くのだろう……?
「昼の薬は、ちゃんと飲んだかい?」
「その、つもりです……」
正直、憶えていない。
「ひょっとして……お友達と、お酒を飲んできたのかい?」
「いいえ……」
「そうかい?…………まぁ、まずは手を洗って、一旦お茶でも飲みなよ」

 そう言われて靴を脱ぐ瞬間に、自分の手にできた小さな切り傷や、足周りの泥汚れに驚いた。
 いつ何で切ったのか、どこを歩いたのか……全く解らない。無事に帰り着いたことに変わりはないので、それで良いような気もするが……。
 そのまま靴下まで脱いで、ズボンの裾を捲ってから、洗面所に向かう。
 以前なら悠さんの作業着を浸けるのに よく使われていたバケツをお借りして、汚れた靴下とズボンを浸ける。

 腕をよく洗って、室内用のジャージを穿いたら、2階に上がってお茶を頂く。
 先生は、特に何をするでもなく、同じ食卓に飲み物を置いて、俺の近くに悠然と座っている。おそらくは、純粋に俺の様子を見ている。
「先生。僕……今日、友人から旅行に誘われました」
「へぇ。どこに行くんだい?」
「これから、決めます……」
「なるほど。……日程が決まったら、カレンダーに書いておいてね。坂元くん達にも、把握してもらわなきゃならないから」
「はい……」
外泊そのものは、あっさりOKしてもらえた。

 今日は、坂元さんが出勤していたはずだ。先生は、彼の退勤後は いつも、何やら神妙な面持ちで、真剣に何かを考え込んでいるように見受けられる。
「あの……先生……」
「ん?」
「悠さんから……何か連絡はありましたか?」
「本人からは、何も無いよ」
相変わらず、弟さんからの連絡のみのようだ。
「君のところには?」
「綺麗な景色の、写真とか動画とか……それだけ来ます」
「じゃあ、出歩く元気があるんだ。良かった、良かった」
口論のことは、もう気にされていないように見受けられる。

「悠さんは……先生のこと『天下に名立たる大先生』と仰ってました」
「何だ、それは!」
「そんな人と、一緒に住んでいられる自分達は『勝ち組』だと……」
「ははははは!!」
先生は、大口を開けて、それを拳で隠しながら大声で笑った。
「まるで、私が大富豪みたいじゃないか!」
「こんな、立派な お家に住んでいるじゃないですか。人を2人も雇って……」
「この家を買ったのは、弟だよ!坂元くん達の給料だって……弟が出してるんだ」
「弟さん……お金持ちなんですね」
「そうだよ。彼はリッチだ。……私は、弟の金で好き勝手やってる、とんでもない大馬鹿だ!実に ひどい姉貴だ!」
先生は、噺家のような口調でそう言ってから、青年のように大声を出して笑った。
 
「先生……もう一つ、訊いてもいいですか?」
「何だい?」
「先生の ご親戚に……真田隆一さんという方は、いらっしゃいますか?」
「ごめんよ。……私には、弟の他に、付き合いのある親類は居ないんだ」
「そうですか……」
「君と面識のある人かい?」
「はい……」

「ひょっとして……例の『課長さん』かい?」
「えっ、え……ど、どうして、それを……!?」
「よく、話してくれるじゃないか!……君に、応急処置をしてくれた【命の恩人】なんだろ?」
(この先生に、そんな話をしたのか!!?…………いつだ?)
全く憶えていない。
 俺の脳は、相変わらず「ひどい有り様」だ。
「彼が、私達と親戚だったら良いのに!と、思ったんだろ?」
「そうです……」
「……残念ながら『違う』と思うよ」
そんな気はしていた。
 先生は、食卓の上で指を組んだ。
「何にせよ、自分の生命を救ってくれた【大切な人】というのは……何年経っても、忘れられないよね」
未練がましいようにも思えるが、そうなのだ。「忘れられない」どころか……俺は未だに、日々、彼の『声』を聴いている。
「その人が……君の【太陽】なんだろ?今も」
「そうです……!」
この先生が言う【太陽】は、単なる天体ではない。生きる希望、そのものだ。
 先生は、至って真面目な顔で大きく頷く。
「その気持ちは……後生 大事にしなさい。大切な誰かに対して……『助けてくれて、ありがとう!』という、感謝の念を抱けるということは……『自分が【生きている】ことについて、有難いと思える』ということだから……それは、れっきとした【自己肯定感】の現れだ。生きていく上で、何よりも大切なことだよ。……大事にしなさい」
「はい……!」
俺のほうは無様にも涙が止まらないのだが、先生は……何とも、誇らしげな笑顔である。胸を張って、自身の【人生訓】を若人に授ける……偉大なる先人だ。
「それさえ、忘れなければ……滅多なことでは死なないよ。人は」
それ一つくらいなら……俺でも、憶えていられそうだ。
「『生きて、もう一度……【太陽】を見るんだ!』という衝動の、繰り返しだよ。生命は」
先生は、ご自身の その言葉に頷いた後「突き詰めてしまえば……」と、小さな声で続けた。そこで初めて涙を浮かべ、まるで「もらい泣き」をしてくれたかのようだった。
 そして、溢れんばかりの涙が引いてから「ありがとう、倉本くん」と言ってくれた。

「君に、何かを語るたび……消え入りそうな自分を、どうにか『引き留める』ことが出来るんだ。何だか、妙な事を言うようだけれども……『自分が、何を知っているのか』を、誰かに語ることをやめたら……私は いとも簡単に、己が誰なのかさえ、忘れてしまう……」
 俺は、先生が「全てを忘れた姿」を、実際に見たことがある。


 先生は「馬鹿げた話に付き合わせて、ごめんよ」と言ってから、風呂を沸かしに行ってくれた。
 俺は真っ暗な外に目をやりながら、先生の言葉を反芻する。
(『生きて、もう一度【太陽】を見るんだ!』)
 その衝動の、繰り返し……。

 「真理だ」と、思った。

 そして、俺は「もう一度、課長に逢いたい!」という衝動の繰り返しで……此処に居る。


次のエピソード
【24.違う空気を吸う】
https://note.com/mokkei4486/n/n59d21aa80239

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