龍の背に乗れる場所 17
私は夢見ていた。
ただ一つの希望だけを、ずっと心に抱いていた。
私が望んだ事は単純で、プリントアウトされた写真の再現。
あの皆で過ごした河原での時間を、再び迎えたかっただけなのだ。
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汚いリュックに、みんなを詰めて、私は河原へと向かった。
途中でコンビニに寄り、全財産を引き出し、それで買えるだけの酒を買った。
全財産で買った酒は、ビニール袋一つで充分事足りる量だった。
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水龍のうねりが見える場所に陣取り、みんなと酒を呑み交わす。
月明かりが水面に反射していた。
揺れる尾花が次の風を誘っていた。
季節外れの箏曲が微かに響いていた。
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「此処に居たんだ」
振り返ると、アナルゥが居た。
アナルゥは私の隣に座ると、広げていた缶ビールに手を伸ばし、プルタブを引き上げて一気に呑んだ。
「皆、逝ってしまうんだ……、皆、離れてしまうんだ。私の記憶には皆が居て、皆しか居なかったのに……、どんどん消えて無くなってしまうんだ……」
私はプリントアウトされた写真を握りしめ、胸の内にあった弱音を吐き出した。茂木の事、加納の事、麗子の事、慎吾の事、時間の事、白井の事、そしてミキとタクミの事。楽しかったバーベキュー大会の事、アナルゥへの引け目。
何も感じなくなった筈の、私の口から、それまで堰き止めていた想いが溢れ出した。
アナルゥは私の話を聞き終わると席を立ち、何処かに行ってしまった。
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私は呑み続けた。酒は、元々好きで呑んでいた訳では無かったが、今、この時ほど、呑むのが辛いと感じた事は無かった。でも呑み続けた。
水龍が渦を起こし、月光が踊り始め、箏曲が鎮魂歌を奏で始めた頃、私の前にドサリと荷物が置かれた。
「浴びる程、呑みなさい」
呆れて帰ったと思っていたアナルゥが、酒を持って戻って来た。酒だけじゃない、つまみになりそうなスナック菓子もある。
「アタシにカオルの心は分からない。だってアタシはもう詰んでいて、その場所で足掻くしかないから。その分、悩まないで済むけれど。アタシの末路なんて誰にでも想像がつくわ」
「私を……置いて行かないで欲しい」
「カオルを? へえ? 置いて行くって? 寧ろ、置いて行かれるのはアタシ。と言うかね、もう随分前から置いて行かれてる。カオルは進んでいたけれど、私は足踏みをしていただけなんだから当然ね」
「私は進んでないよ。私は、一度も、進めた事なんて無い女なんだ。何時だってバランスを取ろうとして、取れなくて、掴んだと思ったコツも活かせない。何時だってタイミングが悪くて、何時だって薄汚い利己主義者なんだ……」
「なら、そうなのかもね」
アナルゥは二本目の缶ビールを一気に呑み、クシャっと空缶を潰して放り投げた。水面に到達した缶は小さな飛沫と僅かな波紋を作り、やがて川底へと沈んで行った。
「じゃあ、アタシは行くね。暫く仕事で留守にするから、マンションは好きに使っていいわよ。綺麗に掃除してくれてたみたいだし。それと……、変な場所に辿り着かない事を祈るわ」
そう言うと、アナルゥは立ち上がり、隣接した遊歩道へと歩いて行った。既に視点の定まらなくなった眼で、その背を追いかけたが、彼女は一度も振り返らずに私の視界から消えて行った。
生温い意識の波に晒されながら、うねりを見つめて呑み続けた。尿意を覚え、ふらふらと力の入らない手でズボンを下ろし、その場で勢いよく放出した。月の光が反射し、不気味に輝いていた。
唐突に、抑える事の出来ない吐き気に襲われた。私はそれまで溜め込んだ醜悪を吐き出し、四つん這いになって、えづき続けた。泥沼の上に、堕落と退廃の汚濁があり、その上に自分が在った。
こんなにも馬鹿馬鹿しいトリオは、他に類が無い。
見上げると綺羅星達が煌いていた。その煌きは、優しく私を誘っていた。
ズボンを上げ、みんなを詰めたリュックを肩にかけて、私はふらふらと歩きだした。
鈍行では、皆に追いつけない。
特急に乗らなければ……。
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主人の居ない悪魔の棲家は静かだった。
私は窓を開け、十五階に吹く、魂の風を部屋に招いた。
乱雑にリュックを逆さまにし、その中から、先ずは加納の眼鏡を手に取った。
愛すべき、自己中心的で掃除好きの男。私を殺してくれなかった男。
放り投げた眼鏡は放物線を描き、窓の外へと消えて行った。
茂木が追っていた蝶の止まった紺色の帽子。
尊敬すべき、実直で、嘘の付けない男。私に知識と言う業を与えた男。
麗子の名刺。
母性愛に溢れ、献身的で、優しい女。私に情けという甘えを与えた女。
慎吾から渡された封筒。
自由で、嘘つきな癖に、善良な男。私に希望という名の餌を与え、生かし続けた男。
白井のパソコン。
繊細で、愛おしくも、狂気に満ちた女。私に虚無と一時の安らぎを与えた女。
そして私に一時の活力を与え、そして奪い去った、休み時間が寄越した返信コメントも、この中にある。
ミキとタクミから買ったサンダル。
一方は健気で純粋、もう一方は気高く聡明。私に羨望と絶望を与えた裁定者。
放り投げたサンダルもまた、放物線を描き、視界から消えて行った。
そして田端カオルというタグをつけた塊《かたまり》。
アル中で薄汚く、フィロソフィアを語る偽善者で、腐った身体を持ち、腐った思考を持ち、叶わぬ希望しか持てなかった招かれざる者。
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詰まれたゴミ袋の上から覗く幻想は、眩い色彩を放っていた。
誘いは風。
その手は私を優しく引き、ゆっくりと背中を押した。
罪の匂いに胸が躍り、暖かな物に包まれるビジョンが浮かんだ。
重力が愚か者を惹き寄せ、愚か者もまた、重力を惹き寄せた。
十五階の悪魔は、翻弄されし肉体を優しく抱きしめ、最後まで共に在った。