見出し画像

龍の背にのれる場所 9

 数年前、田端カオルと出遭ったあの日。穴井留美の中に、これまで想像すらした事のない情感が宿った。

 この落ちぶれて死にかけの女は、何を思って生き続けているのだろう。この女に餌を与えたらどうなるのだろう。

 それより何より、この薄汚い女に陵辱される事こそ、今の自分に相応しい事なのではなかろうか。

 穴井留美は並べられてあった色紙を全て買い上げ、たかだか五万ちょっとの出費で、田端カオルの時間を拘束する事に成功した。

 家に誘い、酒でもてなし、食事(と言ってもツマミ程度だが)を与え、ポツポツとぎこちない会話を重ねて行った。

 やがて田端カオルが本格的に酔っ払って、意味不明な言動に陥ったのを見計らいベッドに誘った。

 処女ではあったが、人一倍感度の良い穴井留美は、何度も何度も快楽の声を上げ、何度も何度も到達し、その過程で女になった。

 男でも、ましてや器具でも無く、同性。それも薄汚れた人生の脱落者の手によって齎されたその倒錯的な感覚に、穴井留美は言い知れぬ満足感を覚えた。同時に自分の中に潜んでいた歪な性欲動に対して、大いに恐怖した。

 穴井留美は機転の利く方ではあったが、単細胞な面もあり、当時自分の殻を破りたいと思っていた事もあって、その体験をブログに書き込んだ。

 私は変わったんだよ。私の魅力指数はアップしたんだよ。

 そう伝えたかったのだが。それが、そもそもの間違いだった。

 一度自分の手から離れた文章は一人歩きを繰り返し、気付いた時にはもう取り返しがつかなくなっていた。

 ある意味、処女であったからこそ、ついていたファンは離れ、その一般的ではない行為に非難が集まり、あろう事か、実はヤリマンで今まで処女を演じていただけだ、等と言う、謂れのない誹謗中傷が殺到した。

 渾名を捩った卑猥な隠語含みの仮称で呼ばれ、ブログにも色々と書き込まれた。今まで笑い話にしかならなかった渾名が、こうも悪意のある別物へと昇華した事実に驚いた。

 その一連の騒動で、一本だけあった深夜番組のレギュラーを降ろされ、バラエティへの出演依頼も途絶え、新たに出版した写真集は、どれもこれも笑いたくなる程の売上数で、勿論赤字だった。

 最後の手段で、起死回生を狙って発表したヌード写真集も不発で終わるに辺り、事務所側は、それまでの固定給制から出来高制へと給与支払い体制を改め、彼女に回すはずだった仕事を他の新人に回した。

 事実上、穴井留美という名のアイドルが死んだ瞬間だった。

 しかしそれでも彼女は芸能関係の仕事に執着した。自分でも何故こんなに執着しているのか解らなかった。

 十代の頃にスカウトされた時は、正直、軽い気持ちで活動していたのだが、何時の間にか、いや、芸能生活を長く続けた結果、それ以外の経験が蓄積されていなかったせいかも知れない。

 幸いな事に、彼女はネガティブとは最も縁遠い存在だった。自分の身に起こった事に対して、深く思い悩む事はしなかったし、自分の仕出かした事に対してもプライドを持ち続けていた。

 そのプライドは高貴な物とは真逆ではあったが、彼女の原動力であったし、彼女の強みでもあった。

 周囲からの眼差しは冷たかったが、新たな名前で映像界に舞い戻ったのは、それから数カ月後の事だった。

 ・

 アナルゥの家はゴミ屋敷だ。私の家も似たような物だが規模が違う。六畳一間のアパートにゴミが散乱しているのと『3LDK』のマンションにゴミが詰め込まれているのとでは、壮観さにおいても、気味悪さにおいても、何においても違う。

 彼女は、そこだけポッカリ開いた定位置へと座ったので、私はガラクタや洗濯物を脇に押しやり、自分用の空間を確保する必要があった。

 ローテーブルの下には、以前、アナルゥが用意して、二人で呑んだ酒瓶や缶ビールが、そのまま無造作に置かれていたので、その中から空瓶と空き缶を選別して、これまた無造作に置かれていたコンビニのビニール袋に詰め込んだ。

 ズボラな私でもするような、最低限の片付けを、この女はしない。人にはそれぞれ我慢の限界があるので、彼女の限界値は私のそれより遥かに高いのだろう。

 こうしていると加納の気持ちが少しだけ解ったような気がするので、人生とは不思議な物だ。自分だけなら分からないことも、他者と関わって初めて分かる事もあるのだから。

「赤ヘネにターキーにマーテル。……どれも空だね。お、ルイⅩⅢ世なんてあったんだ。こんなの見たこと無いよ、こっちはカミュ? 高いやつだね、高いって事しか知らないけれど、美味いんだろうね。高いし。ジンのタンカレーも残ってるね。これはよく飲むよ。安いし度数が高いし。こっちはメーカーズマークのゴールドトップ! 中々手に入らないんだよね。……持って帰って良い?」

「いいよ」

「でもよく考えたら今から呑むんだし、帰る頃には全部無くなってるかも知れないね」

「無くなったらまた買うわよ。何でも買えるんだから。私に買えない物なんて無いの。体張って稼いでるんだから、これで買えない物が見つかったら世界を壊して周るわよ」

 私はカミュの封を開けて、ゴミと一緒に転がっていた百個入り紙コップの筒から二つ抜き出し、トクトクと赤茶色い液体を注いだ。今まで嗅いだ事のない上品な香りに包まれ、それだけで幸せな気分になれた。

 何時の間にかアナルゥが点けたテレビでは、司会者の下らない質問に、回答者が下らない答えを返し、下らない笑い声が合成されていた。こんな物を面白いと思って見ている人がいないことに、製作者は気付くべきだ。

 あれやこれやと、取り留めのない話をしながら呑む酒は上手かった。二人共、何時の間にか出来上がっていて、饒舌に、どうでも良い事を話し続けた。

「そうそう、さっきの話だけどさ、人の心は絶対に買えないよ。これは絶対。買えないし変える事も出来ないし、ましてや解る事なんてもっと出来ないんだ。これに関しては自信があるんだよ。私はこう見えて賢いんだ。パソコンでやった脳年齢だって十四歳だったし、何時も色々考えているからね。だからこれは絶対に正しい意見なんだ」

「まぁ、そうかも知れないわねぇ」

「そんな事あるわけないよ。私が正しいなんて事がある訳がない。こんな社会の何処にも属していない、脳みそが酒で縮こまっているアル中の女が、正しいなんて、ある訳がないんだ!」

「そうだとしてもぉ、アタシにはカオルが必要だし、カオルが大事なのよぉ。友達って呼べるのはカオルだけだしぃ、親友って呼べるのだってそう。私達はお互いを買うべきなのよぉ」

「お互いを買うだって? 巫山戯るなよクソ女! 私は自由なんだ、誰にも縛られないし、まして買われるなんて事は無いんだ。いいか、よく聞けよ! 私は私の物だ。こんな酒で腐ってて一円の価値程もない身体だって、私以外の、誰であっても、自由になんか出来ないんだ。できないん……だ……」

「分かってる……、それでもアタシは――」

 酔って眠る前に、アナルゥが何か言っていた気はするが、私の意識は渦に巻かれたように沈んで行った。