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龍の背に乗れる場所 8

 アナルゥと言うのが、彼女の渾名だった。
 何処か卑猥で、中途半端な呼称と同じく、彼女自身の立ち位置も現状、どこか卑猥で中途半端な物だった。

 十四歳で芸能事務所にスカウトされ、二年ほど地下アイドルとして跳ねたり飛んだりしていた。地下アイドルというのはテレビに出演せず、ライヴ・ハウスなどを中心に活動する人達の総称で、バラドル(バラエティーアイドル)に比べると一本芯の通った印象を与えやすい。

 彼女、いや穴井留美《あないるみ》は、そんな中でも頭一つ飛び抜けた存在だった。往々にしてルックスの拙さや年齢の高さ等がピックアップされがちな地下アイドル達の中で、穴井留美のルックスや年齢、歌唱力や機転の利かせ方は、多くのファンを掴むのに充分な武器となった。

 十七歳の時に出した歌がオリコン初登場三十四位となり、それからじわじわと順位を上げ、最終的には十六位にまで上がった。それを機に地下アイドルからバラドルへと転身した穴井留美は、持ち前の可愛さとトーク力で、徐々にではあるが活躍の場を増やして行き、新しいファンも獲得していった。

 十八歳の頃に書いていたブログが書籍化され、同時にやや際どい写真集も発売されたが、それらは赤字になりはしなかったが黒字だと喜べる程の売上にはならなかった。

 芸能界は新しい波が毎秒押し寄せてくるので、幾ら彼女が多少可愛くて、多少機転が利く存在であっても、直ぐに飽きられてしまうのだ。

 二十歳のバースデーを迎えた翌日、ある番組のプロデューサーに誘われてカクテルバーに行った。その頃の彼女は世間知らずであったし、カクテル知らずであったし、男知らずであった。

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「こうさ、思うんだよね。これからアナルゥは活躍の場をドラマや映画に広げないといけないと思うんだよ」

「そうしたいな、とはアタシも思ってるのですが、中々お仕事が来なくて」

「やっぱりね、今のままじゃ埋もれちゃうと思うんだよね。うん、勿体無い。アナルゥみたいな素質のある娘が、何百人も埋もれて行くのを、僕は何度も見てきてるんだよ」

「……はぁ」

「やっぱりさ、アナルゥの人間的な魅力を、もっともっと高めていかないと駄目だと思う訳なんだよね。こう言ってはあれだけど、まだ男を知らないでしょ? 人間的な魅力や、演技の幅って言うのは、そんなちっぽけな事を経験してるかどうかで、大きく変わってくるんだよね」

「そんなものですか」

「そうそう、そんなものなんだよ。十代の時は処女性で惹かれていたファンも、二十代になると、やっぱりもっと若い娘に目移りしちゃうからね。そこで処女膜なんか持っていても、宝の持ち腐れどころか、マイナスイメージにしかならないんだよ。もっとこう、大人の女性っていうイメージで勝負しないと」

 自分でも、どう足掻けば上に行けるのか解らなかった穴井留美は、その言葉に一筋の光明を得た気はしたが、同時にこのプロデューサーから発せられる厭らしいオーラにも気づいたので、どう切り上げて帰ろうかと悩んでいた。

 事実、彼はこの後、予約しているらしいホテルに誘ってきたし、執拗に男を知るべきだと繰り返していた。その時は「リスに餌をあげないといけないので」という理由で難を逃れはしたが。勿論リスなど飼ってはいない。

 穴井留美が田端カオルと出遭い、興味を持ち始めたのは、丁度そんな飛べない自分に嫌気が差していた頃だった。

 路上で酒を飲みながら、色紙に書いた出鱈目な詩を売っている彼女の姿に、何故だか黒《くろ》く惹かれてしまったのだ。

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 今日も朝から煩く蝉が鳴いている。
 太陽の熱が、容赦なく安アパートの内壁にまで到達していて、睡眠時間なのか拷問時間なのか、その境界があやふやになっていた。

 こんな日こそ、仕事を休んでゴロゴロしたり、冷気を貰いにコンビニ耐久八時間レースを開催したいのだが、いかんせん先立つ物が乏しく、これ以上、仕事を休んでしまうと本当の意味で干上がってしまう。

 寝起きに呑むウィスキーも無く、財布の中には一枚の五百円硬貨と数枚の一円玉のみ。自由と怠惰を履き違えた訳ではないが、この所、色々ありすぎて働く気がしなかったのだ。

 働かないと……。

 電車に乗って狩場に出向き、収穫が無かった場合も干上がってしまうが、そうであっても、何か行動したのとしないのとでは、言い訳の説得力も変わってくる。

 私はシャワーで全身に水分補給をした後、手早く何時ものタンクトップと履き崩したジーンズ姿になって、ノロノロと家を出た。朝から酒を呑んでいないので、腹の虫が必要以上に騒いでいた。

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「とりあえず此処から此処まで、全部頂戴」

 相変わらず体調は悪いが、今日此処で店を出したのは僥倖だったようだ。今日の運気は、何時になく良いのかも知れない。

「アナルゥ、正気? またこんな……。私は有り難いけれど」

 彼女は穴井留美という自称芸能人で、数年前に突然やってきて私の詩を買い占めて行った。それからも頻繁にでは無いが定期的に訪れてくれ、その度に私の懐は豊かになり、彼女の表情もまた豊かになって行った。

 私は殆どテレビを見ない、と言うか見ても頭から直ぐに抜けて行くので知らないが、バラエティ番組を中心に出演しているのだと、以前、彼女自身から教えてもらった。

 今は、違う方面で活躍している様だが、それこそ私の知り得ない世界だ。

 芸能人であってもサラリーマンであっても、使う金の種類に違いは無い。代金が私の手に渡った瞬間に、それは酒代になり、食費になり、光熱費となって私の糧となる。

「カオル、これで今日はもうオフでしょ? 呑みに付き合ってよ」

 売るものが無くなって確かにオフとなったが、偏頭痛は続いている。腸の調子も悪いみたいで、最近ずっと下痢が続いていた。それにまだ昼間だ。こんな時間から酒を呑んだら、私はまた引きずられてしまう。

 今日は朝から一滴のアルコールも入っていないので、その部分の渇望は確かにあるのだが。

 一応の抗いはしてみたものの、本能の部分が激しく私を叩き、結局引きずられる事にした。

「アタシの家に行こう」

「アナルゥの家に、酒あったっけ?」

「この前バカみたいに買ったじゃない。まだ残ってるわよ。それに外で呑むなんてアイドルらしくないでしょ?」

 アイドルと言うのは、何をもってアイドルと言うのか。祭り上げ、祭り上げられた人間同士の思惑が交差しているようで、正直私はアイドルと言う言葉が嫌いだ。

 それに誰であれ、『らしい』なんて言葉で言い表せる程、浅くはないのだ。

 家でアイドルらしく酒を呑みたがるのが彼女なら、それに付き従い、おこぼれの酒を貰いに行くのが私だ。そう考えると、『私らしい』とは思うのだが、それでもそうありたいと願っている訳では無いのだから。

 私は仕事道具を纏め、彼女が手を挙げてタクシーを呼ぶに任せた。

 タクシーは停車位置など気にかけず、路上で死にかけていた蝉の上に停車した。何時だって、大きな物の前では、小さな物が霞むのだ。