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龍の背に乗れる場所 18

 たくさん嫌なことがあった。 たくさん忘れたことがあった。

 人に話してもわからないと思っていた。

 私は歪な魂を持った孤独な驢馬だから。

 ずっとそう思っていた。

 でも顔をあげると、たくさんの笑顔があって、たくさんの支えがあった。

 嬉しくて、本当に嬉しくて、進んで良いのかも、と感じた。

 私はきっと見つけたんだ。

 ずっと探していた場所を、見つけられたんだ。


 カ ヲ ル


 私が最後に書いたのは、こんなに拙くて、しかし紛れもない本音を綴った作文のような詩だった――。


 ・


 ところで私は生きている。マンションの『十五階』から飛び降りて、生きていると言うのも不思議な話だが、とにかく命に別状は無かった。

 身体中、骨折だらけだが、精々二階建ての高さから落ちた程度の傷で済んでいた。地上へ到達するまでの間に、『十二個』のパラボラアンテナを破壊して、落下地点に丁度、樹木がそそり立っていたのが幸いした様だ。

 飛び降りた軌道上に、パラボラアンテナが直線状に並んでいた事も奇跡だが、それでも、こんな怪我で済んだのは、奇跡と運と、何か目に見えない力が、物凄い低い確率で重なったからだと、病院の先生は言っていた。

先生は「龍の背にでも当たったとしか思えない」と続けたが、本当にそんな気がしている。

 ・

 アナルゥは仕事を切り上げて、私に付き添ってくれていた。目を覚ました時、初めて飛び込んできたのは彼女の泣き腫らした顔だった。化粧も浮いていて、目の下に隈まで出来ていて、折角の綺麗な顔が台無しだった。

 私が目覚めた事に気付くと、彼女は大急ぎで病室から出て行き、暫くして化粧を整え、何時もの不敵な顔になって戻って来た。泣いていたのかと聞いても、絶対に認めなかった。

「ホント馬鹿。どうしようもない馬鹿女」

 何度もそう言いながら、私の手をきつく握りしめてくる彼女は、その言葉とは裏腹に、何処か嬉しそうな目をしていた。

「カオルは助かったんじゃない、助けられたの。分かる? どうしようもない馬鹿女に、神様がほんの少しだけ、お情けをかけてくれたのよ。それは間違いないわ。絶対」

「うん……」

「前のカオルはもう死んだのよ。私のマンションのベランダから、迷惑極まりない飛び降りをした時に死んだの。だから今はもう別人。言わばニューカオル。だからもう普通に笑える筈。ねえ、笑えるでしょ?」

「わ、笑える……、と思う」

「思うじゃ駄目! 笑いなさい。私に迷惑かけて、マンションの住民に迷惑かけて、変なゴミまで撒き散らかして清掃の人にも迷惑かけたんだから。ホント子供みたい。……だからニューカオル、悪戯が見つかった時みたいに笑いなさい!」

 アナルゥのキツい口調が心に響いた。今までどうやっても何も解らなかったし、誰とだって上手くやれなかった。

 でも何だか、そんな事。大したことじゃないかもと、産まれて初めて思えてきた。

「アハハハ……」相変わらず掠れた笑い声だ。これでも産まれ変わった筈なのだけれど。

「それで良いの。カオル、貴女は進むの。迷うの。そして傷付くの。でも大丈夫。隣にはアタシが居るじゃない」

「ずっと、居てくれる?」

「さあね。それは分からない。それこそ貴女次第じゃないの?」

 そうかも知れない、いや、きっとそうなのだろう。私次第。遠いと思えば遠くなるし、近いと思えば近くなる。

 今までもずっと、そうだったに違いない。難しく考えていたけれど、みんな意外と近い場所に居たのかも知れない。

 僅かだが、覆っていた靄が薄れて行った。

 崩れても、間違っても、引き返しても、立ち止まったって大丈夫なのだ。ちょっとしたコツを探して、それからでも遅くない。

 そうやって少しづつ登り、口では「興味ないね」と言いながら、龍の背へと近付いて行くのだ。

 窓の外、炎帝の猛威にさらされ続けた虚蝉が、揺られながら落ちまいとしている。

 私はそこに推し移る陽気を見つけ、情緒が研ぎ澄まされて行くのを憶えた。