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水中譚(すいちゅうたん)

昔々。武蔵の国に大川と呼ばれる川があった。

川には橋が無く、渡し船が旅人の足となっていた。

川岸に建つ無人の武家屋敷に、旅の男が逗留していた。この壮年の男は何日も川をにらみつけ、時折空を仰いでは、ため息をついた。

この川には、大亀が棲んでいるという言い伝えがあった。

その昔、渡し船を待っていた旅の絵師が、砂浜に大きな亀の絵を描いた。すると、轟音と共に浜の絵から亀が抜け出し、川の中へ消えていったという。

それ以来、川を渡る人々は、大きな亀が見える度、船の転覆を心配しながらも、この生き物に、川の主としての畏敬の念を抱いていた。

しかし今、その主はいない。

川岸の屋敷の主人である武士が、浅瀬を馬で渡ったある日。大亀に馬ごと引きずり込まれた。武士は岸に逃げたが、馬を失った。

怒った武士は家の者たちと共に亀を捕まえて殺すと、甲羅を売り、肉は家人たちで食べた。その夜のうちに、子供を含む屋敷の全員が熱を出して死に、この家は絶えた。

肉にあたったか、主の祟りかわからない。が、その出自から、どんな不可思議な力を持っていてもおかしくはない。


旅の男は、そのご利益にあやかろうと、はるばるやって来たが、すでに亀がいないと知って落胆した。それでも帰るに帰れず、廃墟となった屋敷に留まり、己が行く末を思案している。

男も絵師だった。

師について絵を学び、運良く後見人に恵まれたが、ここ数年、満足いく絵は仕上げていない。

俺は画才があるのだ。

川の神という最上の画材ならば、高い評価を得られるものが描けるはず。

それなのに、肝心の亀がいなくては。

そうか、俺は江戸へ逃げてきたのだな。このまま後見人の下へは戻れない。

描けない絵師をこれ以上遊ばせてくれるほど、人の好い旦那ではないからな。

いっそ川へ身を投げようか。

男は庭を出て、ゆっくりと土手を降りた。

日中、鈍色だった川は今、闇で染めたような暗黒の世界になった。水際でうつろな目で佇んでいると、突然、履物の先を引っ張られ、男は川に落ちた。

もがけばもがくほど、着物が水を含み、体を沈め熱を奪っていく。全てを諦めかけた時、遠のく意識の中、川底に星々を見た。

月明かりが満ち、その正体を暴く。

それは、岩の間で息を殺して犇めく、大量の子亀たちだった。

らんらんと輝くその目に、親を殺された人間への恨みを募らせているのだろうか。

無数の子亀がゆっくりと、一匹、また一匹と、男に近づく。

男は最後の力を振り絞り、岸へ上がった。

十数回、肩で大きく息をすると、男は全身を被いつくした恐怖を払いのけるように、一気に土手を駆けあがった。

湧き上る生々しい感情を、筆と紙にこめるために。


〈終〉

写真:フリー素材ぱくたそ(pakutaso.com)

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